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町家建築の歴史的遺産 |
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大正浪漫・看板建築/築地エリア |
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看板建築の命名。 看板建築は関東大震災以降の商店建築の一種で道路に沿った側に看板のような壁を持った
建築物で木造モルタル塗り又は銅板張り2階建ての屋根は銅板葺きの建物です。
路上観察学会員の東大生産技術研究所の藤森照信氏が命名したのです。
また看板建築の関連書物は多くはありません。 |
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昭和初期に建てられた「荒物屋の丸二商店」。小さな銅板片を巧みに組みあわせて模様を形
つくり正面を飾っている。後方に続く長屋が風情漂よっている
これぞ大正浪漫です。元千代区神田神保町3丁目。 |
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昭和2年(1927)建築の「植村邸」。元中央区新富町2。外観は全体的に洋風
2階は和風造りの和洋折衷なのです。江戸東京たてもの園。撮影は共に・05.01.18. |
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江戸東京たてもの園の看板建築。撮影・05.01.18.
左側。タイル張りの「文具店の武居三省堂」元千代田区神田須田町1丁目。
明治初期に創業さた文具店で初期は書道用品の卸、後に小売店に変わる。
右側建物。「花屋の花市生花店」元千代田区神田淡路町1丁目。
建物の前面はシンプルに花屋のイメージをデザインしている。
建築年度はともに昭和2年(1927)。
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江戸東京たてもの園。 東京都小金井市桜町3-7。平成5年(1993)開園。
東京の歴史を振り返ると、火事・水害・震災・戦災などで多くの貴重な歴史的建造物が失われてきました。
現在も社会や経済の変動に伴い貴重な文化遺産が失われつつあります。旧武蔵野郷土館として武蔵野の生い
立ちをテーマに博物館活動を行なっていたこの地に、現地保存が不可能な貴重な歴史的建造物を移築して
復元・保存・展示し、次代に継承することを目的に設立された。 |
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見事な看板建築。2階3階の窓は大正浪漫そのもの。現役なのです。
「宮川食鳥鶏卵梶v創業明治34年(1901)。
右側の写真を拡大してご覧下さい。今は殆ど見かけない右書きです。
番七十七百(54)表代 京東話電 の表示です。
3階の両側壁には鶏卵。宮川商店。諸鳥。の取扱商品、店名があり
宮川商店創業時の看板を大切に残しています。
東京都中央区築地1丁目4。撮影・05.03.09. |
東京都選定歴史的建造物として平成23年に選定された。
宮川食鳥鶏卵は関東大震災以降の看板建築の一つで、昭和4年(1929)に建築。
昭和初期の商店の雰囲気を醸し出していて、景観上重要な建造物として認定された。 |
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築地場外市場の円正寺敷地内の洋品店。中央区築地4丁目12。
この境界線が入組んだ店舗、お寺の銅板葺き屋根と一体感があり
多くの観光客はきずかずに買い物に熱中。撮影・05.07.05.
築地はもともと58ヶ寺の寺町であったが、関東大震災後の再建時には
各寺とも金銭的に苦しく、寺の敷地の一部を商売人に貸し店舗として
敷地内の使用を認めた。その名残が円正寺の店舗なのです。 |
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築地の由来。 明暦の大火後(1657)江戸の町の建て直しに以前からの土地不足であった解消のため八丁堀の
湿地帯を埋めて新たな土地を開拓した。今の築地であり地名の由来です。
築地場外市場の規模。元寺町で454坪。58ヶ寺でした。現在の場外市場の店舗数は軒先店舗含め約400店舗
ですから、半数は軒先店舗ですが1店舗当たりの坪数は1.14坪となります。如何に集積し過密かが判ります。 |
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築地場外市場の「乾物店の浜田商店」。東京都中央区築地4丁目13。
この場外市場では、業者向けのみならず一般の消費者、観光客を意識した
ネタの新鮮さを売り物とした寿司店が多くでき、場外市場の新しい顔です。
築地場外市場。関東大震災で日本橋魚市場が崩壊したため、東京市は
築地に仮市場として移転させ、昭和10年(1935)正式に東京中央卸売り
市場となった。寺町であった築地には中央市場にない乾物、台所用品等を
取り扱う商店街ができ、戦後に鮮魚店も移転して場外市場が形成された。 |
築地場外市場は外国人通院の聖路加病院の近くのためか
不思議と戦災にあわず現在も戦前の面影を残している。 |
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江戸町割と今も同じ間口の「滝沢商店」。築地の町割をそのまま
今に伝えている。東京都中央区築地6丁目。撮影・05.07.05. |
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大正時代の人口密集地である庶民の住居を色濃く残す長屋としては珍しい3階建ての「看板建築長屋」
東京都中央区築地6丁目12。撮影・05.07.07. |
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築地6丁目22の場外市場の「海老の大丸」 2階の雨戸袋の浮き細工と3階の壁面には家紋でしょうか?
見事な大工の技です。 |
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築地6丁目21の場外市場の「海産物の三軒屋」
戦前は2階建て以上は禁止されていたはずなのに珍しい3階建です。 |
周辺は空き地となった再開発の波に一人で頑張っている孤軍奮闘の「中央食品」中央区築地7丁目12。 |
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大正時代の町並みの面影を残す珍しい2軒続く看板建築の「細越商店」と「喫茶ドッポ」
中央区築地7丁目10 |
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江戸時代の町割り。徳川家康は江戸城の築城の時にはすでに江戸城下の都市計画を明確に定めていた。
江戸城の本丸・二の丸・西の丸には |
将軍や大御所。 |
江戸城の内堀の半蔵門内の吹上には |
御三家。 |
東の大手門外から和田倉門外には |
譜代大名。(現在の大手町ビジネス街) |
南の桜田門外には |
外様大名。(現在の霞ヶ関官庁街) |
西の半蔵門外から北の一ッ橋門外・神田橋門外には |
旗本・御家人。 |
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(上記の全ては現在の千代田区です) |
譜代大名の東側の常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋
(現在のJR神田・東京八重洲・有楽町・新橋汐留)から
隅田川・江戸湾に至るまでの地区を |
町人地。 (現在の中央区です) |
隅田川を越えて本所・深川・木場と東へ町人地不足解消のため |
明暦の大火(1657年)以降町人地に |
町人地の町屋。 江戸市中は京間(一間6尺5寸=197cm)が用いられた。関東地方は田舎間(一間6尺)
これは町割りの実務担当者が法隆寺村出身の都の宮大工の中井正清であったためである。
町人地の町割り。 碁盤目状の京間60間(=118M)奥行き20間(=39M)を一区画の街区で十数軒に分割された
細長い鰻の寝床だった。町人地への農村地からの流入人口増に伴い一戸当たりは細分化されていった。 |
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これぞ大正浪漫、看板建築の傑作です。築地6丁目の洋品「ワカマツヤ」
西洋建築に憧れてバルコニーを意識したベランダそして欄干、雨どいをご覧下さい。
大工の技が随所に、まさに職人の技です。東京都中央区築地6丁目12。撮影・05.07.07.
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看板建築の特徴を生かしてリニューアル再利用された粋な小料理屋
「亀屋」正面の青銅板装飾や軒下銅板は保存状態が非常に良好です。
山吹色の暖簾、二階の簾、白壁、黒格子が粋を演出している。東京都中央区築地7丁目14。 |
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壁面が見事な看板建築のササヤ。
建物全体の保存状態もよく銅板の破損も無いが表通りに面した壁面全体に
目立ち過ぎる看板ネットが張られて大正浪漫の趣が崩されておりチト残念です。
中央区築地6丁目5-2。 |
看板建築では非常に珍しい 3階建ての2世帯用の住居用看板建築です。
東京都中央区築地6丁目。撮影・共に05.07.07. |
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江戸時代の町割り区画の名残でしょうか店幅は極端に狭いのです。
中央区築地2丁目10。 |
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