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文明開化の歴史的遺産 |
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異色の時計塔 |
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議事堂前三権分立時計塔 |
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国会議事堂前公園の三権分立時計塔。旧彦根藩上屋敷の跡地であり政治の中心でありながら
永田町の警備が厳しいためか静かで皇居を望む隠れた公園です。
洋風公園内には憲政記念館がありまた公園内には日本水準原基がある。
時計塔は立憲政友会の生みの親である尾崎行雄を偲び昭和35年に立法・行政・
司法の三権分立の象徴として31.5mの三面星型時計塔が建てられた。
チャイムは4回鳴り音響は5キロ四方に響き渡る。東京都千代田区永田町1丁目。 |
尾崎行雄。 相州津久井(神奈川県)1858生れの政党政治家。25回連続して衆議院に選ばれ「憲政の神様」
と称される。東京市長、大隈内閣の法相。昭和29年(1954)95歳で永眠。 |
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清澄公園火の見櫓風時計台 |
清澄公園内の江戸火の見櫓風時計台。 東京都江東区白河1。
清澄公園。 大正震災以降復興事業用の製材所として使用され昭和52年(1977)に清澄庭園の
西側を清澄公園として公開され昭和63年(1988)公園の大改修工事時に
隣接の清澄庭園のイメージに併せて江戸火の見櫓時計台を設置した。
震災時以降の庭園・公園の使途と火の見櫓時計台の建設時期は公園管理部から連絡頂いた情報で感謝します。 |
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清澄庭園。 豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷であったが享保年間には下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷
そして明治11年(1879)に岩崎弥太郎が買い取り回遊式林泉庭園とした。
大正13年東京市に寄付し大正震災時以降昭和5〜6年まで庭園は避難所となり昭和7年に一般公開。 |
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飛鳥山公園の和時計 |
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飛鳥山公園の櫓和時計。
飛鳥山のこの地を桜の名所に仕立て上げたのは八代将軍の徳川吉宗で、享保5年(1720)に1270本の桜を植栽して、
大岡越前の時代、江戸庶民のためにこの地を花見の地にしたのが始まりといわれる公園で、 江戸から現在に至るまで桜の名所となっています。
当時、上野などでは禁止されていた酒宴や仮装がここでは許されたために、江戸っ子達に大人気だった。
東京都北区王子1-1。
明治6年(1873)上野公園などと共に日本最初の公園となる。 |
多摩市中沢池の和時計。府中カントリークラブの入口。
平成2年(1990)公園の全体改修工事のときに設置の時計塔は小鳥の巣箱をかねている。
里山に囲まれた公園らしく時計塔の櫓4面に鳥の巣穴が開けている。
多摩市中沢1丁目39。撮影・05.10.25. |
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東武浅草駅前の和時計 |
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東武浅草松屋南口駅前の和時計の時計塔。多くの観光客は浅草観光歓迎塔としか見ていない。
台東区観光課の浅草観光マップでも浅草観光案内塔と記載。良く観れば四角くぼみ柱の時計塔なのです。
四面には台東区入谷鬼子母神の朝顔市の朝顔の図柄と太陽暦に基ずく時刻表示と和時計十二支表示の時計塔です。
このような和洋折衷の和時計は非常に珍しい時計塔です。東京都台東区花川1丁目7。撮影・05.08.17.
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和時計(江戸時代)の時の呼び方。
江戸時代では月の満ち欠けを基準にしていた。 日のあるうちが昼、暮れれば夜。
そして昼夜それぞれを6等分として一刻(いっとき)として時間を計っていた。
夏季と冬季では昼の一刻が違うのです。夏季は2時間40分で冬季は1時間50分です。
「草木も眠る丑三つ時」とは・・(夏と冬では違うのです)
一刻は4分割されています。三つ時とは3番目の時刻・・対比表で計算してみて下さい。
現在の一年365日一日24時間の太陽暦の時刻表示になったのは明治5年(1872)。 |
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十二支と太陽暦との時刻対比表。
(見方は子の終わりは**:**まで。丑は子の終わりから**:**まで・・・・)
夏季 |
子0:30 |
丑2:00 |
寅3:00 |
卯5:00 |
辰7:40 |
巳10:30 |
午13:30 |
羊16:00 |
申19:00 |
酉20:30 |
戌22:00 |
亥23:20 |
子0:30 |
冬季 |
子1:00 |
丑3:00 |
寅5:00 |
卯7:20 |
辰9:00 |
巳11:00 |
午13:00 |
羊15:00 |
申17:00 |
酉19:00 |
戌21:00 |
亥23:00 |
子1:00 |
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錦糸町駅前の和時計 |
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JR錦糸町駅前の時刻十二支表示で一本の針が24時間で
1周する珍しいやぐら和時計です。気付ぬが天秤がゆっくり動いてる。
近くに本社工場があった旧服部セイコー(創業明治14年)が
時計の町のシンボルとして昭和61年(1986)に寄贈。 |
セイコー梶F 創業は明治14年(1881)に小売業としての服部時計店を設立。
明治25年(1892)に製造部門の精工舎を設立。
大正6年(1917)に個人企業から兜桾博梃v。昭和58年(1983)に社名を兜桾買Zイコーに。
平成9年(1997)にはセイコー鰍ノ変更となる。
服部時計店の小売り部門の「和光」は昭和22年(1947)に分離独立させた。 |
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日本武道館と時計塔 |
日本武道館の時計塔。
昭和39年9月(1964)擬宝珠を掲げた日本建築の世界に誇る日本武道の大殿堂が落成し、
第18回オリンピック東京大会では、
初めて正式競技に採用された日本の国技・柔道の競技会場として、
その後は国内最大級のコンサートホールとして利用されている。
その脇に立つ時計塔の文字盤は日の丸に日本建築である武道館の八角形の屋根をデザインしている。
撮影当日は春雷鳴り響くなか某私立大学の入学式として使われていた。
千代田区北の丸公園2-3。 |
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数寄屋橋公園の若い時計塔 |
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数寄屋橋公園で一際異彩を放つオブジェ岡本太郎制作の「若い時計塔」。
この「若い時計塔」は昭和41年(1966)の建立でシチズン時計製です。
習作なのでしょうか、当然ながら大阪万博(昭和45年の日本万国博覧会)の「太陽の塔」そっくりです。
東京都中央区銀座5-1。 |
数寄屋橋ライオンズクラブの結成記念として岡本太郎に製作を依頼し、
昭和45年(1970)の大阪万博の太陽の塔より4年前の作品です。
こちらは顔が時計で手が何本も出ていて、
夜になると照明が入り赤基調の面と青基調の面が映し出される。
近鉄バファローズの猛牛マーク。あれも岡本太郎氏の作品だそうです。
またこの一帯は、かつて外堀にかかる数寄屋橋があったところで、埋め立てられて公園となった。
明治大学発祥の地(旧松平主殿頭旧邸跡)でもある。 |
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ファースト・キッチンの壁掛け時計 |
異彩を放つファースト・キッチンの壁掛け時計。遠くから交差点を見渡すと壁時計とは瞬時には
判断できず、喧騒の街角の風景と捉えるほど周辺の建物・看板と違和感も無く馴染んでいる。
しかし異色な時計の自己主張をしている。東京都新宿区西新宿1-18村上ビル。撮影・05.06.14. |
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スバルビルの屋上時計塔 |
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新宿西口ロータリのスバルビルの屋上時計塔。新宿スバルビルは昭和41年(1966)の竣工。
富士重工業とシチズン時計の共同設置で当初は「21世紀残日大時計」と呼ばれて
1988年設置時点から4588日間の2001.01.01までの残り日数を表示していた。
新宿区西新宿1-7 富士重工業本社ビル。
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富士重工業(スバル): 大正6年(1917)海軍機関大尉中島知久平によって群馬県新田郡尾島町(群馬県太田市)
に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった「中島飛行機」(昭和20年に富士産業と改称)が、富士重工業のルーツである。
軍需から平和産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により昭和28年(1953)に富士重工業を設立、
1955年に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。
昭和33年(1958)発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型である1961年発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、
以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立し、
その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。 |
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新宿パレットビルの大時計 |
新宿パレットビルのシチズン大時計。屋上に取り付けたアナログとデジタルの大時計。
初代は1974年に設置。建物の全面建て替えの2000年10月より新デザインとして運用される。
東西両面に取り付けられ西側はアナログとカリヨン(右側の写真)。
新宿区西新宿1-1。 |
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西側のパレット |
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シチズン時計梶F 創業は大正7年(1918)尚工舎(しょうこうしゃ)時計研究所(東京)が前身です。
昭和5年(1930) 「CITZEN」 (世界の市民の意)、より良き製品を提供すると社名変更する。 |
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スクワール麹町の異色の消防時計 |
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消防職員会館スクワール麹町の異色の消防時計。元麹町消防署の跡地に建設されたビルです。
消防に関係したデザインで時計の上部は火消し纏と壁面は火の見櫓と外壁は梯子をイメージしている。
昭和63年(1988)竣工。翌年時計が設置された。 JR四谷駅前、東京都千代田区麹町6-6。撮影。05.09.08.
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新宿ぺぺのエンゼル壁掛け時計 |
西武新宿ぺぺのエンゼル壁掛け時計。昭和27年(1952)
開業の西武新宿駅を中心に25階の新宿プリンスホテルと新宿ぺぺの複合施設です。
エンゼルが囲むこの壁掛け時計は靖国通りに面しているレンガ色の外観の新宿ぺぺに取り付けられている。
隣接する歓楽街の歌舞伎町のイメージに合わせたロマンティックな壁掛け時計です。
東京都新宿区歌舞伎町1-30. 撮影・05.10.14. |
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八重洲通りのモニュメント平和の鐘 |
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中央区八重洲通りの平和の鐘 |
26個のベルで奏でるカリヨン |
東京駅八重洲中央駅ビルを望む |
東京駅八重洲通りの「平和の鐘」カリヨン時計塔?。東京都中央区八重洲2−1。
中央区が昭和63年(1988)平和都市宣言を記念して翌年にこの三角形のモニュメントが造られた。
平和の鐘は毎時0分になると26個の鐘が四季おりおりのメロディーを自動演奏する。(午前9時〜午後21時の間)
この鐘はカリヨンの鐘の技術では世界的に定評のあるオランダのロイヤル・アイスバウツ社によって製作された。 |
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ヤン・ヨーステン記念碑。 二つの羅針盤の輪が天球儀の形に合わされてる。
羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、
また天球儀は「時」の象徴でもあります。
左側の頭部がヤン・ヨーステン像、右側の帆船が日本漂着の際、
彼が乗り組んでいたオランダ船リーフデ号です。
中央上部には当時のオランダの国策会社「東インド会社」のマークが置かれ、
中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしている。
四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。 |
足元にあるヤン・ヨーステン記念碑 |
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八重洲。慶長5年(1600)オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに豊後に漂着した、
ヤン・ヨーステンは徳川家康の外交顧問に登用されたオランダ人でこの辺りに住んでいたそうです。
住んでいた場所は略して「ヤヨス河岸」と呼ばれ・・それが後に今の地名「八重洲」になったとか・・・ |
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日比谷シティ足長カリヨン |
日比谷シティ足長カリヨン。
昭和57年(1982)に設置のカリヨンはオランダのプティアンドフリッツエン社製で時を告げるメロディを奏で
日比谷シティのシンボルとなっている。 千代田区内幸町2−2−3。 |
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日比谷シティ。 旧日本放送会館(NHK)の跡地に三菱地所が昭和56年10月に竣工した
地下5階、地上31階の日比谷国際ビル前にある「日比谷シティ広場」をイベント会場として、
都内で唯一の屋外イベントスペースがあるオフィス空間として存在し、
都会の中に季節感のある四季折々の様々な催し物の誘致・企画・運営を行っている。 |
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カリヨン。中世から元来は時報用としてであったが、バロック時代(17世紀初頭から18世紀中頃)
にネーデルラント、フランスなどで発達し教会堂や市庁舎に設置された。
鍵盤の採用で演奏が可能となり近代に入ると数十個のベルが取り付けられメロディーを奏でる組鐘となった。 |
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