歴史の 浪漫街道  明治浪漫 赤煉瓦建築の御所水道ポンプ室、インクラインなどの蹴上浄水場は近代遺産です。
文明開化の歴史的遺産


明治浪漫 赤煉瓦建築


  赤煉瓦とガラス窓に映る甍   京都蹴上上水

琵琶湖疎水合流点。08.05.31. 御所水道ポンプ室。08.05.31.   琵琶湖大津から京都蹴上を結ぶ琵琶湖疏水は、明治23年(1890)に完成。 明治維新で遷都された千年の都は人口も産業も地盤沈下、 京都府知事46歳の北垣は再生復興に新進気鋭の弱冠21歳の田辺を抜擢。 お雇い外国人を使わず、日本最長 2.4キロのトンネル堀削を竪坑工法にて5年で開通させた。
御所水道ポンプ室は明治45年(1912)完成。
滔滔と流れる新旧疎水の合流点 煉瓦建築の御所水道ポンプ室

疎水第3トンネルの西出口付近にある、新旧疎水の合流点に建つ瀟洒な煉瓦建築の御所水道ポンプ室。 設計は宮廷建築家の片山東熊 (京都・奈良の国立博物館、東京迎賓館を設計) ポーチや円柱付きのバルコニーを配したネオルネッサンス建築です。
疎水の水をここで汲み上げて、背後の山に設けた貯水池に蓄えた。 御所の紫宸殿棟上より40メートル高く 4キロ先の敷地まで十分な水圧で送水・消火できる仕組みにした。
 

疎水完成により琵琶湖より京都への水運が可能になり、九条山より蹴上にかけては、 582mに36mの標高差があり勾配が15分の1の急であるためインクライン(傾斜鉄道) により三十石船をそのまま台車に載せて上下させました。
今ではインクラインは廃止されている。
  蹴上船溜りのインクライン。08.05.31.
往時を偲ばせるインクライン

琵琶湖疏水は滋賀県の大津市三井寺近くから長等山をトンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかのトンネルを流れ、 日ノ岡山のトンネルを抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル(2,436)は当時、類をみない長大トンネルでした。 工事は琵琶湖疎水工事計画を卒業論文に仕上げていた田邊朔朗、工部大学 (現東京大学)を卒業したばかりの21才の青年技師。 疎水の完成をもって日本初の水力発電 (蹴上発電所、80キロワットのエジソン式直流発電機2台を設置、同24年(1891)完成。 現在も関西電力蹴上発電所として発電が行われている)
日本初の路面電車(京都電気鉄道伏見線・同28年開業)どれも、疎水の完成と前後する。 京都が今日の発展を遂げたのは、疎水の完成によるところが大きいといっても過言ではない。
 

インクライン下の煉瓦造り通路。08.05.31. 蹴上側から見る通路。08.05.31.   傾斜鉄道。蹴上インクラインは南禅寺船溜と蹴上間の傾斜区間で延長581.8メートルは世界最長であった。 1890年代(明治23〜)に完成、陸上輸送の進歩で昭和15年前後(1940)に休止したが、 近代遺産として形態保存されている。
写真はインクライン下の煉瓦造りの通路。
インクライン下の煉瓦造り南禅寺側出口 煉瓦造り蹴上側通路入り口


  赤煉瓦とガラス窓に映る甍   南禅寺水路閣

見事なアーチ連なる水路閣。08.05.31. 南禅寺横切り今も疎水流す現役。08.05.31. 塩を吹きながら時代の重みに耐える煉瓦。08.05.31.
橋脚13基の美しいアーチ全長93mの水路閣 今も水路閣を滔滔と疎水が流れる 古代ローマの水道橋を手本にしたとか

南禅寺の水路閣。
南禅寺の広い境内を切り裂くように架かる橋脚13基の煉瓦造りのアーチ式水道は古都の異様な奇観です。 明治の神仏分離令による仏教弾圧時代で、幕府と縁の深い禅寺だったために、 明治新政府の見せしめとの噂も出たのです。  琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流と、 そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は、上水道と防火用水として現在も京都市の96%をまかなっており、 市民はいまだ渇水の苦労を体験していないのです。
 

南禅寺: 京都市左京区南禅寺福地町。
臨済宗南禅寺派大本山は、 正応4年 (1291)、亀山法皇が {建長元年 (1249)に後嵯峨上皇の皇子として誕生する 10歳にして皇位に就く  第90代亀山天皇として文永11年(1274)まで〜嘉元3年(1305) }が無関普門禅師 (大明国師) を開山に迎えて開創した。 京都五山および鎌倉五山の上におかれ別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。
蒙古来襲という国難に立ち向かっていた時代です。 あの石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」という台詞で有名な南禅寺の三門は、 この寺の象徴でもある勇壮なものです。
 


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