歴史の浪漫街道  雑多な情報館 あの天下普請の駿府城は今は面影もなく敷地境内が残る駿府城址公園
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駿府城址公園 '09.05.31.

駿府城址。徳川家康像。09.05.31.   徳川家康は、 今川家の人質として19歳までの12年間を駿府で過ごした。その後信長と力を合わせ武田氏を滅ぼして信長より駿河の国をえる。 そして信長の死後、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を支配する東海一の大名となり天正13年(1585)に家康が居城としての城造りを始める。
翌年には駿府城に移った。一応竣工したのは2年後。しかし豊臣秀吉の指示により3年後には関東へ移封せざるを得なくなる。 秀吉没後徳川幕府を開き、豊臣家包囲網を築く中、将軍職を秀忠に譲った家康は隠居城として念願の大城郭駿府城の築城をはじめる。
そして慶長12年(1607)家康は天下普請により修築した駿府城に戻った。
駿府城本丸跡に建つ徳川家康像

復元巽櫓。09.05.31. 東御門櫓門。09.05.31. 駿府城敷地図。09.05.31.
静岡市葵区平成元年復元巽櫓 平成8年復元の東御門櫓門 天下普請の駿府城

天守台は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大の天守台であった。五重七層の勇壮華麗な天守が存在した。 三重の堀を持つ輪郭式の典型的な城。本丸を中心に二の丸・三の丸となる。 江戸に向かう東海道からの駿府城眺めは、 天守と富士山が並列し美しく大御所の権威を示す城であった。三重の堀を持ち、五層七階の天守がそびえる大城郭であった。

大御所時代、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えた。 江戸の将軍に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、豊臣氏の処置に精魂を注ぎ、 慶長19年(1614)には方広寺鐘銘事件をきっかけに開戦し、同年の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼし、 徳川政権による日本全域の支配を実現した。元和2年(1616)駿府城にて75歳の生涯を閉じる。
   辞世の句として 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」 を詠んだ。
 

城址公園のあおい。09.05.31。 「葵紋」。フタバアオイの葉を図案化したもので、徳川氏の「三つ葉葵」、 賀茂神社の二葉葵など。転じて徳川氏や賀茂神社のことを指す。
アオイ科(Malvaceae)は双子葉植物の科のひとつで、従来の分類では約75属、1500種からなる。 美しい花をつけるものが多く、観賞用のハイビスカス、ムクゲ、フヨウ、タチアオイなどのほか、食用のオクラ、 またワタやケナフなど繊維として利用されるものもある。 家紋に使われる葵(徳川家の「三つ葉葵」、下鴨神社の「双葉葵」など)は別科であるウマノスズクサ科のフタバアオイの葉をデザインしたものである。

あおい。 小アジア、中国の原産。日本へは古くに 薬用として渡来した。 唐の代以前は、蜀葵(しょくき)の名前で一番の名花とされた。 日本では、平安時代は「唐葵」と呼ばれたが江戸時代に今の「立葵」になった。 人の背丈以上になり、ぐんぐん伸びる。でも強風には弱いようです。  

『アオイ(葵)』と呼ばれる植物には、色々な種類があります。 徳川家の『葵の紋所(三葉葵)』の意匠の元になった植物は、 『カンアオイ(寒葵)』の仲間の
『フタバアオイ(双葉葵)』は、 3〜5月に咲きます。
『タチアオイ(立葵)』の開花期は、5〜8月。
『モミジアオイ(紅葉葵)』は、7〜8月。
『トロロアオイ(黄蜀葵)』は、7〜9月に咲きます。
『ゼラニウム(天竺葵)』の開花期は、3〜11月。
『ペラルゴニウム(夏咲天竺葵)』が、4〜6月に咲きます。
私には真夏の花は「あおい」。何処を見てもあおいの京都で育ったためでしょう。
 


徳川家康公遺訓     「乱世の生き方」
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。
急ぐべからず。 不自由を常と思えば不足なし。
心に望み起らば困窮したる時を思いだすべし。
堪忍は無事長久の基。 怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る。
己を責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。   慶長八年正月十五日
  家康公遺訓。09.05.31。


駿府は徳川家康大御所時代11年間の居城。家康が最も好んだ地でもあったが、 寛永12年(1635)に城下町で発生した火災が駿府城にも延焼し、天守閣や御殿、櫓などの大半を焼失。 以後、天守閣は再建されず、さらに宝永4年(1707)の宝永大地震、安政元年(1854)の安政大地震でも甚大な被害を蒙ります。 その後城は幕府直轄となり城の管理は城代 (江戸幕府は大坂・駿府・伏見・京(二条城)の4城に城代を設置)にゆだねられる。
明治維新で政権を失った徳川家は、江戸から駿府に移り、駿河府中では不忠に通じる、と明治天皇に配慮し地名を 「静岡」 という何とも穏やかなものに改名。さらに明治3年(1870)以降、城内の建築の大半が払下げ、取り壊しが実施されます。 また、明治29年(1896)には陸軍省の管轄となり歩兵第34連隊が置かれた。昭和24年(1949)大蔵省より静岡市に再度払い下げ、公園として整備。
 

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