歴史の浪漫街道  雑多な情報館 戦後の政治を動かした鳩山御殿といまだ現役の高輪二本榎消防署の望楼
魅惑の歴史紀行


古の雑多な歴史情報館


鳩山御殿 (鳩山会館) '09.09.06.

玄関ホールの階段。09.09.06.   鳩山会館。 鳩山一郎元首相の邸宅で、民主党鳩山由紀夫(2009.09.16.第93代内閣総理大臣) が学生時代まで過ごした音羽の高台に建つ。
敷地は約7200平米、関東大震災直後の大正13年(1924)一郎元首相が建てた。 当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の洋館で、 各所にハトやミミズクなど鳥をモチーフにした装飾が施されている。
設計を手掛けたのは一郎の友人の岡田信一郎(1883〜1932)で、 大正・昭和初期を代表する建築家として知られる。
東京都文京区音羽1丁目7-1。

建物の北側。09.09.06. 玄関ホールと赤い絨毯。09.09.06. 玄関南面。09.09.06.
正面玄関北側 一階玄関ホール 正面玄関南側

衆議院議員の鳩山和夫が音羽の地に居を構えたのが、明治24年(1891)秋であった。
和夫は安政3年(1856)〜明治44年(1911)。 江戸末期の武士・美作勝山藩士(岡山県真庭市勝山)の江戸留守居役の四男として江戸虎の門に生まれる。 米国留学し、エール大学法学博士。外務次官。衆議院議長。東京大学教授。早稲田大学総長を歴任した。
  中庭に立つ和夫夫妻。09.09.06.
朝倉文夫作の和夫、春子夫妻像

外壁装飾にハトやミミズクや鹿が。09.09.06.   この洋館を建てたのは長男の一郎で、ハトをあしらったステンドグラスや、屋根に飾られたミミズクや、 軒下の角にハトを飾っている。 ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、 また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行なわれ、戦後政治史の舞台となった。
東京大空襲で被害を受けながらも改修、 平成8年(1996)6月完璧な修復工事がなされ、遺品などを展示する記念館として一般公開している。
和夫の北海道の鹿と軒下にハト

鳩山家は、衆議院議員の和夫(1856〜1911)、 和夫の長男で総理大臣となった一郎(1883〜1959)、外務大臣をつとめた威一郎(1918〜1993)、 さらに衆議院議員の由紀夫(1947生れ)後に首相、邦夫(1948生れ)、と四代にわたり政治家を生み育てた。  

明治28年に、当時の北海道庁が未開の土地を貸し付けた書類が収められている。 石狩国空知郡栗沢村字栗山に土地を借りた人の名前が書いてある。 借地人は「東京都小石川区音羽」の鳩山和夫である。貸付地積は35万3,116坪と記入されていた。東京ドームのほぼ8倍に相当する面積だ。 平地に立って目に見える範囲の土地すべてといってもいいだろう。 東京の鳩山和夫は不在地主としてこの土地を所有し、本州各地から入った農民が小作人として働いた。 北海道栗山は、かっては民主党鳩山代表ゆかりの「聖地」だった。  


高輪二本榎消防署 望楼 '09.09.04.

現役の消防署が交差点角に建つ。09.09.04.   戦後しばらくは眼下に海を望んだ高輪の桂坂と海抜25Mの坂上の二本榎通りの交差点角に建つ高輪消防署二本榎出張所。
昭和8年(1933)戦艦三笠を模したとも言われる外観の三階建て望楼の付いた耐火建築は、 大戦の空襲にも遭わず今も現役なのです。
設計 警視庁総監会計営繕係(越知 操)  施工 間組。
庁舎内の見学は一階受付で9時〜16時まで申し込みができる。
東京都品川区高輪二丁目6番17号。

第一次世界大戦に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、 玄関は御影石に木の扉、望楼の表面はクリーム色の磁器タイルで覆われ、3階の円形講堂にはアールヌーボー風のガス灯が付いている。 柱や階段など曲線や曲面を用いながらも、機能性を重視した力強く躍動感あるデザインです。   独特の円形建築。09.09.04. 高層ビルが周辺に建つ。09.09.04.
タイル張り望楼 高層ビルと望楼

桂坂。 高輪の高台から江戸時代の海岸線近くに至る500Mの坂道。武家屋敷や寺社の高い石垣にツタが絡む所から「つたかずら」が坂道の由来といわれるが、 「かつら」で変装して遊里通いをしていた僧がこの坂で急死した事件にちなむという説が有名です。

二本榎通り。 海抜25Mの坂上は江戸時代この地にそびえた2本のエノキが、東海道を行き来する旅人の目印になったと伝えられる。

 

望楼とは、常に見張りを置いて火事の発生の監視に努めている塔。 火の見櫓とは、火事の発生を皆に知らせるためのに使われる櫓、の違いがある。 望楼は万治元年(1658)定火消し(じょうびけし)が組織された時に、 火消し屋敷(江戸城専属の消防隊)に建てられたのが始まりとされている。

1657年(明暦3年)に江戸では大きな火事があり、これを「明暦の大火」といいますが、 この火事で江戸の町はほとんど焼けてしまいました。 そこで今後このような大きな被害がでないようにと、万治元年(1658) 幕府(四代将軍家綱)は、4人の旗本に命じて「定火消」という消防組織を作りました。 飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町に火消役の屋敷をつくり、そこにはいつも役人や火消人足がいて、 火事が起きたらすぐ出動できるように準備していました。これが現在の消防署の元といえます。
 

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