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無名の民達の歴史的遺産 |
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懐かしき看板ポスター・大正浪漫 |
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明治33年(1900)〜大正10年(1920)年代のサッポロビールの木製の掛け看板。
店舗内に掲示されていたためか、看板の文字やマークは100年経過するも、
木製看板は痛みや褪せもせずに、当時の鮮やかさを保っている。 |
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大正時代から昭和3年(1928)まで使用のヤマサ醤油の看板。
一升瓶での販売は清酒が明治19年(1886)からで醤油は大正時代からである。
写真拡大で判読できる一升瓶ラベルには濱口儀兵衛醸と表記されているが、
社名変更した昭和3年まで使用されていた。
ヤマサの屋号右上の「上」は最上醤油の表示である。
関西では「極上」と表示していた。関東ではその上をいく、と「最上」を表示した。 |
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大正7年(1918)西多摩郡酒造組合の小売料金表。
料金表には、清酒一石に付き80円。清酒最上一石に付き100円と記載されている。
一升瓶で換算すると、清酒が80銭と清酒最上が1円です。
この当時は駅弁の幕の内が15銭。普通の駅弁が12銭です。
高いか安いか?編集者は高いと思ってますが、皆さんはどう思いますか。 |
この時期大正7年は第一次世界大戦で日本はシベリアに出兵、
8月には富山で米騒動が起こり全国に波及、混乱の時代でした。 |
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大正6年(1917)花王石鹸が電柱広告を開始する。
大正7年(1918)太田胃散が鉄道沿線看板広告を開始する。 |
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大正時代から昭和初期のものと思われる「清酒・世界長」灘・興亞酒造の琺瑯看板。
蔵元の名は世界長酒造(時期不明)と変わり平成7年(1995)の阪神大震災にて全壊し再建断念する。
銘柄は「沢の鶴」が継承する。
大正から昭和初期と思われる「くすりの広貫堂」の琺瑯看板。
創業は明治9年(1876)でマークのふくら雀印が有名。
昭和10年から使用設置された「美酒・銀鱗」秋田・那波商店の琺瑯看板。創業は文化12年(1815)。
昭和10年に銘柄をそうらん節から付ける。
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大正時代 |
昭和初期 |
昭和10年 |
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大正8年から昭和15年まで使用設置「ライオン石鹸・専賣店」の琺瑯看板。
創業は明治24年(1891)に小林富次郎商店として設立。
大正8年(1919)にライオン石鹸に社名変更し昭和15年(1940)にライオン油脂と社名変更している。
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大正元年 大正14年 昭和18年
(マーク変遷は花王の企業小史から参照) |
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看板の刻印月マーク
微笑み顔です |
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大正14年から昭和18年(1943)までの代理店看板です。
「花王石鹸」と代理店名が右書きと月のマークキャラクターが右向きの看板です。 |
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花王石鹸代理店看板の月のマーク円形デザインは明治23年(1890)から明治45年まで使用、
半月の右向きキャラクターマークは大正元年から使用され大正14年(1925)に改定そして昭和18年まで使用され、
半月の左向きは昭和18年(1943)以降現在に至るまで使用されている。 |
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大正3年(1914)当時食品工業を展開していた鈴木商店が門司市(北九州市門司区)に建設した焼酎工場、
大里酒精製造所から始まる。
操業当時は、主に朝鮮や中国向けに輸出する焼酎を製造していた。
大正14年(1925)九州の同業の肥後酒精(株)、大日本酒精(株)、島原西肥興業(株)を合併し、
大日本酒類醸造(株)となりました。
昭和19年(1944)大日本醗酵工業(株)と社名変更する。
看板上部の「造」の字が斜めは意識的に!自然にずれた! |
右横書き看板 |
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日本初の生命保険会社は、明治14年(1881)創業された有限明治生命保険会社である。
明治31年(1989)には「徴兵保険株式会社」が設立されたが、
大正14年(1925)に第一徴兵保険に社名変更。
徴兵保険とは、普通の生命保険会社とは別に、養老保険の一種で子供が小さいうちに加入しておくと、
その子供が徴兵などのときに保険金が給付されるというもの。
現存する保険会社の中でも、現 富国生命(富国徴兵保険)、旧 東邦生命(第一徴兵保険)、
旧 第百生命(第百徴兵保険)、現 大和生命(日本徴兵保険)などがあった。 |
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陸軍の桜の徽章がクッキリ |
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左から大正10年から使用された。昭和2年
文字変更です。右は昭和25年から使用
(仁丹企業小史より参照しました) |
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昭和2年から昭和4年(1929)までに設置された森下仁丹の住居表示電柱看板。
上段の聖護院と丸太町は共に昭和4年に上京区から左京区に改称された。
写真下段の二重に張り付いた表示に注目。 同じ町名であるが旧上京区姉小路は新中京区と改称される。
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京都市は昭和4年まで上京区、下京区の2区のみであったが人口増のため中京区、左京区、東山区が
昭和4年(1929)に追加設定され昭和6年(1931)には右京区、伏見区が設定され京都市は7区となった。 |
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森下仁丹の創業は明治26年(1893)大礼服のビスマルク?コマーシャルは明治38年(1905)から使用され
この懐かしき琺瑯町名表示看板は明治43年(1910)から始まり全国津々浦々に設置されていった。
それにしても長きにわたる風雨に琺瑯看板の防錆、装飾の持続性に感嘆します。装飾品では七宝焼きが有名。
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時を経てきた琺瑯看板であるが80年を経ても今だ色あせず健在です。頑張れ大礼服の仁丹よ。
京都西陣地区にて。 |
きものの産地西陣。西陣織の源流は古墳時代の5〜6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が山城の国、
今の京都・太秦あたりに住みつき養蚕と絹織物の技術を伝えやがて平安京時代に上京区上長者町あたりに集まり織部町といわれる町をかたちづくる。
室町時代の中頃京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こり11年間も続いたため、
多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み織物業は壊滅状態となる。
戦乱が治まると再び京都に戻りもとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や
戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開。西陣織という名前は西軍の本陣跡、西陣という地名がその由来です。 |
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仁丹の大礼服マークが上部の琺瑯看板。
通常仁丹大礼服は下部に置かれているのが大半ですが上部は珍しい。
狭き路地を挟み上京区仁和寺街道淨福寺西入「西冨仲町」と「菱丸町」とが並び町人地町割りの面影を残す。
琺瑯看板の大礼服ビスマルクに憧れ郷愁に惹かれるのは私だけでしょうか。京都西陣地区。 |
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昭和4年(1929)銀行の初任給は70円。昭和6年(1931)小学校教員の初任給は50円でした。
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