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無名の民達の歴史的遺産 |
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懐かしき看板ポスター・昭和浪漫(戦前) |
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昭和2年(1927)建築の九段下ビルの2箇所の看板と白い大理石に刻まれた旧神田区の住居表示看板。
神田区は明治11年から昭和22年までの住居表示なのです。東京都千代田区神田神保町3−4。撮影・05.08.30.
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靖国神社近くの九段下ビルは関東大震災復興事業として昭和2年(1927)
竣工であり傷み激しいが現在も使用され当時初めての3階建共同住居ビルでした。
原宿表参道の同潤会ビルも同時期に建てられ共に戦火を潜り抜けた。
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ビールの琺瑯看板 昭和5年 (1930)〜 昭和25年 1950年代 |
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琺瑯看板は色褪せぬ |
兜ビールのマークと恵比寿マーク |
カブトビール。 明治時代に、大都市をひかえた既存4大ビールメーカーに挑戦した醸造の愛知県半田市のビール会社。
そのビールは明治22年(1889)に「丸三ビール」として初出荷しています。
以降「カブトビール」は東海の雄として明治29年から企業整備令を受ける昭和18年(1943)まで販売された。 |
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パトローゲン。輸入品が人工乳の主流を占めていたが、
大正11年(1922)東京帝国大学教授の鈴木梅太郎が育児用粉乳として「パトローゲン」を完成。
キノミール(和光堂・1917年)、ドリコーゲン(森永・1921年)、パトローゲン(明治・1923年)が市販。
前2者と異なりビタミン・ミネラル類が強化され完全乳児食の調製粉乳でした。
昭和7年(1932年) パトローゲンの製造販売権を明治製菓に譲渡、明治製菓から発売された。 |
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昭和13年(1938)に開局した上恩方郵便局の右書き看板。
同時に取り付けられた琺瑯看板。恩給とは懐かしい文字です。
恩給の取扱は明治43年から郵便年金は大正15年からです。 |
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恩給とは。
近代恩給制度は1875年の海軍退隠令及び1876年陸軍恩給令に始まり、
1883年には文官恩給令が制定され、同時に太政官に恩給局が設置された。
恩給法(大正12年法律第48号)に規定される公務員であったものが退職または死亡した後、
本人またはその遺族に安定した生活を確保するために支給される金銭をいう。 |
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昭和15年の「東輝ランプ」の琺瑯看板。創業は明治23年(1890)白熱社(後の鞄月ナ)昭和15年?(1940)
に東輝電気工業と社名変更。昭和64年(1989)にグループ3社合併して東芝ライテックに。
この看板は電力事情から戦後かとも思われる。
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キッコーマン販売店の琺瑯看板。戦前の看板と思われる。
看板横の街灯の傘つき裸電球が往時を醸し出している。
「宮内省御用達」明治24年(1891)から昭和22年(1947)の
旧宮内省の存続期間に「宮内省用達称標出願人取扱順序」
に基づき、社会的・業務上相当の信用があることが条件で
許可された者のみが表記できたものである。 |
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現在よく見かける「宮内庁御用達」の表記は宮内庁では公式には認めていないが、
見ると何となく安心してしまう不思議な力があります。 |
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専売局時代の京橋区?佃島の煙草小賣所琺瑯看板。戦前の看板と思われる。
大蔵省専売局の煙草専売法は明治37年(1904)から昭和24年(1949)の
日本専売公社が(後の日本たばこ産業)設立されるまで続く。
住居表示の京橋区は明治11年(1878)の東京府15区6郡と定められてから
日本橋区と合併して中央区になった昭和22年(1947)までの表示である。 |
東京府15区は、深川区、本所区、浅草区、日本橋区、下谷区、神田区、京橋区、
本郷区、小石川区、麹町区、芝区、牛込区、赤坂区、四谷区、麻布区でした。
明治11年(1878)に定められた15区は、正に江戸城下そのものでした。 |
40年ほど前から愛用していた「asahi-PENTAX-SV」。本体のみで重量は800gです。
ずっしりとしたこの重さ、よくぞ持ち回っていたとあらぬ感心。
今は本棚の奥にて静かに此方を見ている。
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