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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! 祭り神輿 |
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北千住新春初担ぎ 平成22年1月(毎年) |
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荒川千住新橋からは新春の風も緩やかな元旦初担ぎの千住宮元睦の神輿 |
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千住祭連絡会新春初担ぎ 巡行 '10.01.01.(元旦)12時
毎年大川町氷川神社から
当番睦町会の神社まで。
今回は千住神社まで2時間半。
大川町氷川神社: 足立区千住大川町12-3。
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カラフルかわら版 |
商店街の赤い幟 |
千住宿場町通りのシャッター絵 |
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大川町氷川神社。
創建は永仁年間(1293〜99)でかつての千住5丁目地域の鎮守としておかれたと言われる。
明治維新以前は安養院別当をであったものが神仏分離で現在のような神社となった。
明治44年(1911)から荒川放水路の大改修計画の一環として本神社も各碑とともに大正4年(1915)
現在地に移転再建された。
江戸後期に流行した富士講にともない富士山等の溶岩で作られた標高3mの富士塚が文政7年(1824)に構築された。
明治44年の荒川放水路開削工事にともない最初の移築がされ、昭和43年に大川町氷川神社に移築される。 |
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千住大川町氷川神社より巡行 |
初担ぎだ!と和気あいあい |
大正通り商店街を巡行 |
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建物の隙間からの淡い日差しに照らされ巡行 |
千住神社鳥居前から境内へ |
千住神社。 東京都足立区千住宮元町24-1。
神社の創始は千住に集落の形成され始めた延長四年(926)
開拓民達が五穀豊穣と土地の鎮護を祈って伏見稲荷よりの分霊を勧請し、
丘陵地の千崎に稲荷神社を創立したのが始まりである。大正4年(1915)「千住神社」に改号。
永承六年(1052)の奥州征伐の際の八幡太郎源義家陣営の地として史跡となっている。
寛永年間にいたって千住が日光街道の第一宿となり、
当神社はその西方にあるために西の森とも呼ばれ、享保十二年(1727)正一位に叙せられた。 |
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一之宮、台座四尺五寸、文久3年(1863)建造。
二之宮、台座不明、明治18年(1885)建造。
今年の9月第二日曜には20年に一度の千住神社含めた全神輿の勢揃い渡御です。
千住神社、千住氷川神社、千住本氷川神社、中町氷川神社、大川氷川神社。河原稲荷神社は渡御するのか。
千住にはほかに八幡神社(市場神輿)、日ノ出町神社、元宿神社があるのですが渡御するのか。 |
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昭和5年建造の神輿庫に鎮座の一之宮(左)と二之宮(右) |
千住の由来
この辺りに人が住み着いたのは千年以上も前で、後鳥羽天皇の建久年間(1190〜98)
に源頼朝が奥州方面の防備として関所を設けたこともある。千住は千寿とも書くが由来は幾つかある。
○嘉暦二年(1327)新井図書政次が隅田川で投網を打って千手観音を得たことから。
(新編武蔵風土記に記載されている)。
○千葉一族が移り住んで「千葉氏が住む村」と呼んだのが村名化した。
○この地で生まれた足利幕府8代将軍義政の愛妾千寿の名に因む。
尚、南千住駅に対して隅田川の北側にあるので「北千住駅」はあるがそういう地名はない。
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千住宿(新)千寿七福神 (千住七福神とは別です)
@福禄寿 河原町稲荷神社 千住河原町10-13
A弁財天 仲町氷川神社 千住仲町48-2
B大黒天 本氷川神社 千住3-22
C布袋尊 大川町氷川神社 千住大川町12-3
D寿老神 元宿神社 千住元町33-4
E恵比寿天 千住神社 千住宮元町24-1
F毘沙門天 八幡神社 千住宮元町3-8 |
芭蕉旅立ちゆえ |
千住本氷川神社の大黒天 |
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千住七福神とは。 (祀られているのは神社やお寺で宗派にこだわらない) ( )は神のルーツ。
@ 福禄寿(中国) 不動院 千住1丁目2-2
A 弁財天(インド) 仲町氷川神社 千住仲町48-1
B 大黒天(インド) 本氷川神社 千住3丁目22
C 布袋尊(中国) 長円寺 千住4丁目27-5
D 寿老人(中国) 源長寺 千住仲町4-1
E 恵比寿天 (日本)千住神社 千住宮元町24-1
F 毘沙門天(インド) 勝専寺 千住2丁目12 |
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七福神信仰・詣でを創りだしたのは、室町時代の京都の町衆でした。
神様はインド、中国、そして日本がルーツです。そして祀られているのも神社やお寺であり、
宗派も様々です。この習慣を創ったのが京の町衆です。まとめて拝めば、
ご利益もあるだろう、効率的だろうとの発想でした。
流行ったのは政治が混乱し戦乱広がる室町時代、好景気の元禄の反動の低成長期の文化文政時代、
そして近年の低成長時代。七福神信仰は不安抱える時代に流行るとか。
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