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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! 祭り神輿 |
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箭幹八幡宮 木曽祭典 (やがら) 平成23年10月 (毎年) |
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白装束の担ぎ手に担がれて木曽東から忠生第三小学目指して路地中へ入り込んでくる |
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箭幹八幡宮木曽祭典 (矢部八幡宮とも称する) 会場は忠生木曽会館。(=宮出し宮入)
'11.10.02.(日曜)会館より巡行 9:00〜16:30。
15時から木曽東の木曽交番前より女神輿と連合。
宵宮では万灯神輿が18〜19時に巡行する。
忠生木曽会館: 町田市木曽町1552-4。 神社: 町田市矢部町2666 |
木曽祭典POP |
木曽囃しの白狐と獅子舞う屋台 |
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箭幹八幡宮は推古24年(西暦616)に勅令によって勧請された、と「八幡宮記」にある。
社名について武蔵風土記稿は「造営の時に社殿屋上に矢幹(矢の幹)をさしたので矢幹八幡になった。」とし、
武蔵名勝図絵は「木曽八幡と称するに至った木曽義仲が滅亡したので、木曽をはばかり、
箭幹八幡に改称した。」と記しています。また地名から矢部八幡宮とも称した。 |
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道行につく幣追いと三匹獅子 |
幣追いと太鼓叩く三匹獅子 |
大神輿の先導もする露払い獅子 |
箭幹八幡宮の幣追いと三匹獅子舞 (町田市指定無形民俗文化財)の演舞は、
9月18日(日曜)に唐破風神輿が神社より宮出し12:30〜宮入15:30で巡行する当日の、
箭幹八幡宮の矢部祭典で奉納される。 |
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下横神酒所から浅沼休息所へ |
肩入れ替え神輿後ろから入り込む |
路地中の浅沼休息所前での神事 |
箭幹八幡宮の八幡様を祀る木曽神輿会の大神輿は、大正5年(1916)に建造された延軒屋根で平屋台造りの台座4尺(120cm)
の1000kgを超える町田市内で大きな神輿として知られている。
全面改修工事の作札は東京元浅草十三代目、南部屋五郎右ヱ門です。 |
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白壁ある路地中から路地中へと巡行 |
女神輿との合流場所の木曽交番前目指す |
巡行隊列は太鼓、獅子囃子、露払い三匹獅子、神職、氏子役員、白装束で担ぐ大正大神輿、
最後尾に獅子舞の踊り舞台とトラクター牽引の木曽囃し山車。
今年度初めて行われる女神輿との連合巡行は15時ごろに木曽東の木曽交番前から巡行する。
箭幹八幡宮の享保5年(1720)の社殿再建の棟札に「小山田庄惣鎮守」とあって、木曽・根岸両村名主以下、
上小山田・森野・根岸・図師・山崎・原町田・木曽という7ヵ村の氏子が奉斎したことを記しているから、
該社は広く付近数ヵ村の畏敬を集めた古社である。
現存する本殿および随身門は享保5年(1720)の建造になるもの。祭神は応神天皇。 |
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木曽東の木曽交番前から木曽大神輿が駐機中の前を女神輿が先行巡行 |
町田市木曽の地名の由来:
寿永二年(1183)源頼朝と木曾義仲の和解の手段として、義仲の息子の義高が人質として鎌倉入りする際、
当地に逗留して八幡を造営したと伝わる木曽八幡社は
(=矢部八幡)の釣鐘(現在は無い)の銘に、鎌倉時代に信州より木曾氏が移り住んだから木曽という地名がついたと刻印されていたとか。
元和3年(1617)には徳川家康の遺骨が、
駿河国久能山から下野国日光へ移される途上に木曽村を通過した。棺が通過した道はその後大山街道として整備され、
木曽町と小野路町が宿場としての役割を果たすようになった。
横浜開港後は、絹の道としても賑わった。 |
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