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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! 祭り神輿 |
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高幡不動尊 奉納神輿練り 平成24年4月(毎年) |
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大太鼓に先導されて不動尊駅前参道を高幡不動の総門を目指し連なって巡行 |
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高幡不動五重塔と仁王門 |
平安様式の高幡不動の五重塔 |
日野出身の精悍な土方歳三像 |
高幡山明王院金剛寺は、古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として、
平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を関東鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、
不動明王を安置したのに始まる。
安永8年(1779)火災に遇い、門末三十六ケ寺従えた関東屈指の大寺院であった金剛寺は、
大日堂や大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失してしまった。 |
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春季大祭国宝まつり。4月26日(木)から29日(日曜・昭和の日)。
大回廊拝観展で江戸時代から現代まで所蔵の絵画100点を特別展示。
「高幡不動尊奉納神輿練り」。 '12.04.29.(日曜)12:30〜15:00。
同好会神輿7基の境内から京王高幡駅前を往復。 日野市高幡733。 |
住職の挨拶や同好会の紹介の後、お札所の宝輪閣前から担ぎ出し |
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神輿を先導する八坂神社太鼓 |
神輿の先頭は万灯神輿の應神睦 |
背高神輿の上田天神 |
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勾配浅い屋根の愛宕若宮神社 |
唐破風屋根の八幡大神社 |
担ぎ棒二段重ねの石明神社 |
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神輿7基参加のうち子供神輿一基は境内のみでの担ぎです。
境内から参道そして京王線の高幡不動駅前までの往復なのですが、巡行は2時間半です。 |
殿の延軒屋根の八坂神社 |
土方歳三像前で奉納神輿練りの担ぎ終え |
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土方歳三 天保6年(1835)〜 明治2年(1869)は、新選組副長、幕末期の幕臣で、
戊辰戦争では旧幕府陸軍指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮した。
武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に10人兄弟の末っ子として生まれた。
実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね修行を積んだ。
真紅の面紐に朱塗りの皮胴など洒落た防具を使用し、高幡不動の境内をよく稽古場所にした。
新政府軍の箱館総攻撃で応戦中銃弾に腹部を貫かれて戦死する。享年35才。 |
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狭い高幡不動尊参道の幅一杯使い連なって巡行してくる後方の神輿たち |
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金剛力士忿怒の阿吽の「吽」 |
国の重要文化財の仁王門 |
金剛力士忿怒の阿吽の「阿」 |
高幡不動の仁王門は国の重要文化財に指定されています。昭和33年(1958)に改修された重層銅板葺造りです。
金網こしに撮影の忿怒の形相をした筋骨逞しい寄木造りの立派な金剛力士の一対が左右に安置されている。室町時代の作ですが、
川崎街道の真近にあり、車塵が積もる。
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正(うんしょう・京都真言宗智積院第七世 )「号泊如」の筆。 |
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日野市高幡地名の由来:
奈良時代に日野台地に烽火(のろし)台が設けられ、「飛火野(とびひの)」と呼ばれたことから「火野」が
「日野」に転じたとする説が有力です。
また武蔵7党のうち西党の祖といわれた日奉(ひまつり)宗頼がその祖先の天御中主神を祀った日野宮権現に由来するとする説もある。
高幡の地名は、戦国時代の末、北条氏照の家臣・高幡十右衛門の居城(不動ヶ丘一帯に高幡城が築かれた=高幡不動尊奥の丘)
があったことからとの説もある。 |
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