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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! 祭り神輿 |
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第49回小田原北條五代祭り(松原神社) 平成25年5月 (毎年) |
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大工町通り交差点から小田原担ぎの「オイサー」「オリャサー」の掛け声と共に三基並んで合体並走 |
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小田原北條五代祭り神輿連パレード '13.05.03.(定日) 神輿出発式 松原神社参道前13時
なりわい交流館 宮の前高梨町通 まち衆神輿連パレード 13時半 大工町通り交差点 〜
銀座通り〜錦通り〜お堀端通り |
小田原城天守閣 |
松原神社の神酒所 |
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小田原北條五代祭りとは、
戦国時代に小田原城を拠点とし、北条早雲(伊勢盛時)から五代約100年にわたってその栄華を極めた戦国大名北條氏を偲ぶ祭り。
同時に開催される松原神社、大稲荷神社、山王神社、居神神社、下府中神社の各神社例大祭(5月3日〜5日)
と混同されるが、各神社本社神輿は5月3日のまち衆パレードの最後尾で小田原担ぎを披露して巡行するが例大祭とは別です。 |
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武者隊パレードに手造り甲冑装束姿で観光協会前に集結した武士軍団たち |
小田原北條五代祭りは小田原市最大の観光イベントで、
総勢約1,800名の武者隊・音楽隊・まち衆隊の大パレードが市内を勇壮に練り歩き、観客は18万人。
家紋の三つ盛鱗の○伊勢盛時(北条早雲)○北条氏綱、○北条氏康、○北条氏政、○北条氏直と五代百年続く。が、
天正18年(1590)豊臣秀吉によって総勢21万にも及ぶ大軍に囲まれ小田原城に篭城するも開城しここに北条氏は滅んだ。 |
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宮の前山車に見送られる山王神社神輿 |
お膝元の松原神社神輿は駒札本社を掲げる |
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小田原総鎮守の松原神社神輿が神社参道入り口に向けて「オイサー」「オリャサー」と小田原担ぎをご披露 |
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つっかえ棒従える大型の大稲荷神社神輿 |
台座分厚い唐破風軒八棟屋根の居神神社 |
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先頭に高張り提灯1対、次に弓張り提灯そして、
音頭取(木遣者) 「ソーオリャ〜、エーエエーーっ」 担ぎ手 「オウっ」 木遣者 「ソーオリャ、
めでたくー納め〜てよぉ、ヨーイトナー」
担ぎ手「オイサー」「オリャサー」の掛け声の小田原担ぎ(小田原流)と呼ばれる独特な担ぎ方で渡御される。
また小田原の山車は1階部分に出格子が取り付けられ、2階部分は数多くの丸提灯 (ほおずき)で覆われ、舞台で祭り囃子が奏でられる。 |
下府中連合会の神明神社神輿 |
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神輿連パレードを先導する馬簾と続く木遣 |
合体並走神輿がまだかと音頭取の指示を待つ |
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大工町通りを銀座通り交差点まで「オイサー」「オリャサー」で合体並走の小田原担ぎを繰り返す |
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担ぎ手は浴衣ではなく肩パット白装束の居神神社 |
左右に倒す神輿揉みと差し上げ繰り返す神明神社 |
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市場横丁は現在の本町三丁目です。この横丁は海に臨んでいるので「魚座」の魚商が多く住み近くに魚市場が開かれ、
すぐ傍に「蒲鉾通り」と呼ばれ小田原名物「蒲鉾」の工場、お店が数多く並んでいます。
江戸時代には、すでに元のかまぼこは、竹輪と呼ばれ、板についたものが蒲鉾と呼ばれるようになった。
旧鈴廣本店の玄関口側が「市場横丁」です。北条時代に組まれた「魚座」(魚商人が結成した同業組合)
は江戸時代になるとやがて80軒を数えるようになり、この市場横丁で文字通り市を開いていたそうです。 |
鈴廣発祥の地の市場横丁 |
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小田原提灯: 提灯の一種で童謡「おさるのかごや」に登場する。
「提」は手にさげるという意味で、携行できる灯りを意味する。
東海道の宿場町であった小田原では、旅人が携帯するのに便利なようにと、
天文年間(1532〜1555)に同地在住の職人・甚左衛門が、
畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。
竹ひごを螺旋状に巻いて使う割骨(一本掛け=讃岐提灯)と、短い物を輪に組んだ物を多数用意する巻骨がある。
小田原提灯は同じ直径のリング状中骨による蛇腹形状を持ち、折りたたんでの携帯がしやすかった。 |
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小田原駅コンコースの小田原提灯 |
小田原地名の由来: 古くは早川庄(神奈川県足柄下郡早川村=桓武天皇の子孫、桓武平氏)。
後北條氏以来、小田原城を中心に栄えた地。小田をハリ(開墾)した地の「小田張(おだはる)」から「おだわら」と転じた説がある。
また、地名「小由留木(こゆるぎ)」の草書体を誤読したものとする説もあるという。 |
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