歴史の浪漫街道 祭りだ!神輿だ!祭り神輿。茅ヶ崎浜降祭は禊ぎのために海へ入り海岸狭しと神輿群が練り歩く
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! 祭り神輿


    茅ヶ崎濱降祭 暁の祭典 平成21年7月 (毎年)

茅ヶ崎の暁の祭典は華美絢爛な神輿が乱舞。09.07.20.
浜降祭は華美絢爛な神輿がドッコイ!どっこい!乱舞しながら海に入る茅ヶ崎の暁の祭典

大判の濱降祭POP。09.07.20. H21年度は33基の参加。09.07.20. 各神社の墨絵のPOP。09.07.20.   茅ヶ崎濱降祭 暁の祭典
09.07.20. (祭日海の日)
 午前5時 一番神輿入場一部禊
 午前7時 濱降祭合同祭開式
 午前8時 先発神社発輿(出発)
 午前9時 海入り禊終了 帰路へ
祭典参加は相州寒川茅ヶ崎33基
会場: 茅ヶ崎西浜海岸
茅ヶ崎濱降祭 参加神輿は33基 墨で描かれた神社かわら版

海の日の早朝、茅ヶ崎海岸に寒川神社を中心に近隣のお神輿33基が集まり、 連合して農家の五穀豊穣と漁師の大漁満足を祈願する浜降祭が行われます。 昭和53年に神奈川県の無形民俗文化財に指定されました。 明治9年以降から毎年7月15日にお祭りが行われてきたが、 平成9年からは「海の日」に変更になりました。 浜降祭が旧暦6月15日に寒川神社の社人が「浜にお供えをする」とある史料的な裏付けのあるのは安永9年 (1780)で200年を超える歴史と伝統をもっています。
各神社を深夜の宮立ちで夜明けとともにの神輿が茅ヶ崎海岸西浜に向かって集まり、 午前5時には一番神輿が海岸に入場します。寒川神社神主の式典が終わると禊ぎのために海へ入り海岸狭しと神輿群が練り歩きます。 勇壮な祭典をひと目見ようと、西浜の浜に毎年十数万人の人々の熱気で溢れ「暁の祭典」といわれます。
 

  華美絢爛な暁の祭典


浜降祭起源については諸説ありますが、800年ほど前、鶴嶺八幡宮(同市浜之郷) の例祭の行事として行った神輿の「浜下り」がルーツとして伝えられています。 (新編相模国風土記稿)
浜降祭への往路はわき見をせず海岸に向かうが、復路は各神輿の地元家々に立ち寄って、 ご接待のお神酒を飲み休憩します。禊ぎを終えた復路はより豊かな生命力に満ちて力強くなってきます。 力余って神輿同士のぶつかり合いも起こすこともあります。 神輿に合わせて独特の節回しの茅ヶ崎甚句と合いの手が町々に響き、 子供神輿や山車も合流して祭りは1日盛り上がります。 浜降祭を迎えると湘南の街・茅ヶ崎も夏本番を迎えます。
 

参加神輿でも別格の浜之郷鶴嶺八幡社。09.07.20. これぞ相州神輿の日吉神社。09.07.20.
後方の日吉神社と貫禄の浜之郷鶴嶺八幡社 左奥本社宮と日吉神社と右奥の神明大神

さすが担ぎ手までが一糸乱れぬ寒川神社宮本。09.07.20. 神明大神と熊野。09.07.20. 諏訪神社と神明。09.07.20.
発祥の寒川神社は風格漂う宮本 神明大神と熊野神社 諏訪神社と神明大神

華美絢爛な神輿が「ドッコイどっこい」と勇ましい掛け声と共に砂浜狭しと乱舞します。   同時に発進で連合巡行。09.07.20. 甘沼八幡神社。09.07.20.
神明・甘沼八幡・熊野・室田八王子の連合巡行 後方熊野神社と甘沼八幡神社

  乱舞しながら海に入る禊

連合で禊の海に突入。09.07.20. 恐怖の大波が打ち寄せてくる。09.07.20. 岸壁まで海中渡御。09.07.20.
八大龍王・第六天・本村八坂・厳島 八大龍王と第六天と本村八坂 御霊と厳島が岩壁まで禊渡御

荒れ狂う湘南茅ケ崎の大波に、観衆たちは今回は海中禊は無理だなとあきらめ。 多くの神輿が砂浜から戻る中、突然予期せぬ八大龍王神・第六天神社・本村八坂神社・厳島神社の連合神輿が海へ突入です。 大観衆は一斉に海岸へ走り、カメラマンは防波堤に鈴なりです。 つられる様に数基が海へ突入。祭典本部では大波注意をしていたようですが、 茅ヶ崎甚句じゃないが、♪セエー 私しゃ茅ヶ崎 荒波育ち 波も荒けりゃ気も荒い〜、です。  

波被り全員ずぶ濡れ。09.07.20. 足元すくう大波がくる。09.07.20.
ずぶ濡れの茶屋町大神宮 金刀比羅神社と御霊神社

岸壁まで海中渡御の御霊神社。09.07.20. 背後から大波が打ち寄せる。09.07.20.
岸壁に近かずく御霊神社 金刀比羅神社を大波が洗う

  独特の相州神輿と担ぎ方

二天棒で内側で担ぐ。09.07.20. 駒札を隠すように布の神社名。09.07.20. 15年前に修復の明治22年の神輿。09.07.20.
本村八坂神社の印半纏と鉢巻 屋根唐破風で吹き返しがない 胴に金網巻き箪笥金具付く

独特の相州神輿と担ぎ方。
◎ 二天棒です。担ぎ手は縦棒の内側に入り、反対の棒に手を突っ張って担ぐ。 独特で勇ましい掛け声は「はードッコイ、どっこい、ソーレ」。 棒には綱が付けられ、これを引っ張って前後で舵取りをする。 担ぎ手は指定の半纏と印鉢巻のタオルを着用する。

◎ 屋根は唐破風が多くを占め、吹き返しは付いていないのが殆どです。唐破風の上には鬼板がついています。 駒札は殆ど無く、浜降祭などではその代わりに布に神社名を書いたものを大鳥の前に掲げ、 蕨手は野筋の先がそのまま蕨手になっており、軒の上にあります。 先端は大きく内側に巻いています。

◎ 胴の四隅には飾り房に変わり大鈴が釣り下がり担ぎ手の息が合えば「シャンシャン」と鳴り、 軒下から神社名等の書かれた大きな桶型提灯が吊るされる。 寒川や茅ケ崎方面は赤提灯です。胴は海の幸の大漁願って金網で巻く。 胴の下のタンス内には電池が装備され夜間照明され、たんす金具が左右に付いており、ドッコイの調子をとる。
 

  茅ヶ崎甚句。
茅ヶ崎甚句は江戸時代、若い衆の粋のよさを示す遊び歌であった。 茅ヶ崎独特の旋律に民謡、歌曲を歌いこんで、即興的にアレンジした。 禊ぎの後のご接待と開放感から神社までの帰路で歌われる。また各神社には独自の甚句とその歌い手名手がいます。

♪セエー 私しゃ茅ヶ崎 荒波育ち 波も荒けりゃ 気も荒い
♪セエー 相州茅ヶ崎 茅ヶ崎名物 左富士 上り下りの東海道 松の緑と吹く風は
     昔も今も変わらねど 富士の高根と男伊達  相模おのこの晴れ姿

♪はぁー サアサ皆様担ごうじゃないか 同じ神輿を担ぐなら 相州相模の須賀港
     三島神社の大神輿 沖が相模の灘ゆえに 板子一枚地獄海
     おのずと若い衆勇み肌 担ぐ神輿も荒くなり 暴れ神輿と人は言う
 

鶴嶺八幡社 地区  
  神社名   町名   建造年 重量/kg 台輪/尺   特記事項
鶴嶺八幡社 浜之郷鶴嶺 文化3年 450 4.15 文化の古神輿
日吉神社 西久保 昭和51年 600 4.25 八王子と重さ競う
本社宮 矢畑 昭和53年 450 4.05
神明大神 円蔵 明治13年 450 4.20

鶴嶺 地区  
三島神社 萩園 昭和25年 450 4.15
松尾大神 今宿 昭和26年 300 4.10
日枝神社 中島 明治5年 450 4.15
八幡宮 柳島 昭和23年 550 4.20

茅ヶ崎 地区  
厳島神社 新町 大正8年 360 3.70
神明宮 十間坂 明治後期 不明 不明
第六天神社 十間坂 明治25年 500 4.00
中海岸神社 中海岸 昭和39年 150 不明 今回は不参加
八大龍王神社 中海岸 昭和53年 450 4.00
八坂神社 本村元町 明治22年 600 4.10 日吉と重さ競う

寒川 地区  
八幡大神 一ノ宮 昭和63年 不明 不明
倉見神社 倉見 昭和53年 350 不明
菅谷神社 寒川岡田 天保5年 260 4.00 天保の古神輿
寒川神社 寒川宮山 天保10年?S50 260 4.00 唯一の駒札宮本
腰掛神社 芦沢 昭和10年 400 4.00
八坂神社 幕末頃 300 4.00

松林・小出 地区  
八王子神社 室田 昭和53年 300 4.15
諏訪神社 下寺尾 昭和60年 400 不明
八雲神社 上赤羽根 明治27年 480 4.10
神明宮 下赤羽根 大正2年 450 4.80 台輪一番大きい
熊野神社 高田 昭和52年 450 3.60
八幡宮 甘沼 明治26年 450 3.80
諏訪神社 香川 昭和51年 450 3.05
熊野神社 小和田 昭和54年 540 4.20
八王子神社 菱沼 明治28年 600 4.35 八坂と重さ競う

南湘 地区  
茶屋町大神宮 茶屋町 昭和32年 250 不明
南湖住吉神社 南湖下町 文化5年 400 4.20 文化の古神輿
御霊神社 南湖烏井戸 昭和31年 150 2.50
金刀比羅神社 南湖上町 天保2年 420 4.10 天保の古神輿
南湖八雲神社 南湖中町 明治21年 400 4.00

海の日: 島国である日本は、新鮮な魚介類が採れ、人や生活物資を運ぶなど、そんな海の恩恵に感謝し、 海洋国日本の繁栄を願う日として制定された。 その由来は明治9年、東北地方巡幸を終えた明治天皇が青森港を出港し7月20日に横浜港に帰着したことにちなんで、 昭和16年に「海の記念日」平成8年には14番目の「国民の祝日」に制定され、平成15年からは7月第三月曜日が「海の日」となった。 ちなみに「海の日」を国民の祝日としているなは日本だけです。  

海岸線は: 満潮時の最高水面の高さで決める。最高水面とはこれ以上海水が上がらない、陸の面積が一番小さくなる。 海岸線は年間を通じて観測し、随時更新される。ちなみに日本の海岸線の総延長は約3万、地球の一周は約4万です。  

○○丸: 船の名前で丸がついたのは、平安時代の書物に「坂東丸」との表記がある。 当時自分や大切なものを「麿」といっていたものが「丸」となり、船名になったとの説が有力。 他には船を「本丸」と城に見立てたとする説もある。明治時代に「丸」を奨励する法律が制定され定着したが、法律は廃止されている。  


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