歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 背高神輿を要所々々で荒々しく揉みながら渡御、途中で山車が神輿出迎える
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


     羽村 玉川神社 平成21年4月 (毎年)

羽村へ神輿担ぎに都心から戻ってきた若人たち。09.04.12.
羽村玉川神社旧奈賀町青年団の宮出し。これぞおらが鎮守の杜の春祭りだ。

神輿データ:祭神: 素盞鳴尊 台座:二尺八寸(86) 建造年度:平成2年 製作者:仏道館みこし連 。
特記: 延軒屋根 勾欄造り 背高な神輿で祇園囃子が先駆け、山車と木遣歌に神田囃子が練る。

地口行灯「虫籠ですいかの種がないている」。09.04.12. 観衆集まる中で大幟の準備。09.04.12. 大幟取り付けに急げやの声かかる。09.04.12.
スイカの種を駄洒落にした地口行灯 大急ぎでといってもゆったり大幟を引き上げ 氏子衆が集まったぞ、急げ式が始まるぞ

巡行準備できた山車。09.04.12. 山車引く子供達が集合です。09.04.12. なぜか境内の端で簡素な発輿式。09.04.12.
山車もお亀ひょっとこ子役も待機 玉川神社へ山車引く子達が集結です 神社境内でのささやかな発輿式

玉川神社。 例大祭:09.04.12.(日曜)10時半〜18時
春祭りを八雲祭、または天王祭といって、従来七月の暑い盛りに行われていたものが、 最近では四月第二日曜日に行われている。 この日、氏子区域内を、神輿渡御と山車巡行が行われる。 東京都羽村市羽中4-1-16。
 

太鼓吊るした祇園囃子の先駆け。09.04.12. 全員衣装ピシッと決めた氏子青年団。09.04.12. 境内狭しと宮神輿を激しく揉む。09.04.12.
榊が先導して祇園ばやしの先駆け 氏子青年団が宮神輿の宮出しを行う 社殿や山車の前で激しく神輿揉みを行う

この祭りの進行に主導的役割を果たすのが、神輿に対する「祇園ばやし」であり、 山車の曳行に、木やりうたと掛け合うのが、「神田ばやし」である。
この日、榊(カシ)にシメを付けた露払いを先導に、「祇園ばやし」を奏でる一団が、大太鼓、小太鼓を丸太にしつらえ、 笛を添えてそれに続き、神輿のお旅所への先駆をつとめる。
それに付随して、山車が「神田ばやし」と木やりうたの風流に誘われて、 祭衣装を装った氏子民に曳行される。

この二つの囃子を、当初から伝承しているのは、玉川神社だけである。と神社説明文にはあるが、  (当日隣接の例大祭開催の武蔵阿蘇神社でも同様の所作をしています。)
祇園・神田囃子ともに、天保年間(1830〜44)以降から江戸末期にかけて、関東代官伊奈半十郎の勧奨もあって、 江戸東金(金町)葛西神社の神官能勢環の創始になる 「葛西ばやし」にその源流を発していることは、芸能史上明らかである。と玉川神社説明文にある。
 

威勢よく鳥居を潜る宮出し。09.04.12. 神社前で激しく揉む。09.04.12. 揉んで、差し上げのつど大喝采。09.04.12.
渡御のため鳥居を勢い良く潜りでる 神輿揉みを神社前交差点で悠然と行う 交差点で回転させる差し上げです

宮出しの練習重ねてきたかは判りませんが、 氏子青年達による一糸乱れぬ激しい神輿揉みと差し上げに、観衆からその都度、拍手喝采が沸き起こる。  

玉川神社は羽村の学校発祥の地。
羽村の学校教育は明治6年(1873) 禅林寺、禅福寺、一峰院などを仮校舎として始まりました。 明治10年に間口八間(15M)奥行き四間の二階建て校舎が玉川神社敷地内で完成、 西多摩小学校として羽村と五ノ神村の生徒150人が学ぶようになる。 明治34年(1901)に、生徒数が500人となり、現第一中学校に移転する。
  玉川神社北側に建つ一峰院。09.04.12.
一峰院の鐘楼門(文政2年築)と奥の本殿


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