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	     |  | 伝承と伝統の民族文化遺産 |  |  
 
 
	
		
			|  | 祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |  |  
 
 
	
		
			|  |  |  | 戸倉 三島神社 平成21年4月 (毎年) |  
 
	
		
			| 神輿データ: 祭神:大山祗命 台座:三尺一寸(94) 建造年度:大正4年 製作者: 不明 特記: 延軒屋根・平屋台造りの古風な神輿。宮出しは参道狭く少人数二天棒で担ぐ。
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			| 戸倉城山の中腹の深い杉木立の中の急な石段を古式の宮神輿が渡御のため麓へ下山してくる |  
 
	
		
			|  |  |  | 戸倉三島神社。 例大祭、09.04.19.(日曜)9:30〜。
 戸倉本郷の鎮守社である。
			天徳二年(958)伊豆三島神社の分霊を遷して創建された。
 東京都あきる野市戸倉414。
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			| 三島神社の拝殿の左が武多摩神社本殿 | 末社の武多摩神社の天井絵は色あせている |  |  |  
 
	
		
			| JR武蔵五日市駅より檜原街道を西に進む。
			野崎酒造の前を過ぎ、西戸倉で南に入る。
			光厳寺の北の戸倉城山の中腹、深い杉木立の中に三島神社は鎮座している。 三島神社には、室町時代の武州南一揆の際の、古文書が多数保存されている。
 
 三島神社の拝殿左隣にある末社の武多摩(ぶたま)神社の天井絵。
 武多摩神社本殿は入母屋造りの建物で、
			前面一間の通し廊下の格天井には、草木などの絵が描かれている。
			はもと光厳寺塔頭慶雲寺持ちの不動堂であったが、
			明治初年の神仏分離令にもとずき武多摩神社と改名、
			社殿は三間四方で、江戸中期の仏堂の面影をとどめてる。
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			| トラックで担ぎあげて社殿前に鎮座の神輿 | 人目に触れさせぬ神職のみで御魂遷し | 宮出しのささやかな乾杯 |  
 
	
		
			| 神社社殿での9時半からの神事の最後は御魂移しです。
			戸倉の氏子や市議会議員と小学校校長が参列している社殿の照明を落とし暗闇にして、
			神職のみで社殿前に鎮座する宮神輿への御魂遷しです。
			境内ではお神酒でささやかに乾杯して、
			10時から宮神輿と子供神輿を麓(ふもと)のお仮屋へ担ぎ降ろします。 |  |  
 
	
		
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			| 戸倉城山の中腹の境内からの宮出し | 第二の鳥居潜り急な石段の参道を下る | 参道の深い杉木立の中を下り続ける |  
 
	
		
			| 俺らが鎮守の森の祭りだと、ご先祖様も担いだ神輿を里にお迎えするのです。
			新緑のこぼれ日の中を氏子達は古を偲び、集落の健康を喜びながら、
			蝶が舞う長閑な里に下りて神輿はお仮屋へと静々と進む。 |  |  |  |  
			|  |  | やっと村社から里に神輿が顔を出す | 氏子が緩やかな稜線をお仮屋へと歩む |  
 
	
		
			|  |  | まるで黒甲冑のように異様な風格を醸し出している宮神輿です。
			建造は大正4年(1915)の大鳥の羽は非対称で蕨手は歪んでいるなど痛み激しいが、古風な神輿です。 台座の裏蓋には墨にて、昭和34年2月(1959)皇太子ご成婚記念大修理。
			大工 小峰 勇、板金工 館野清二、塗装師 市倉福三。と明記されている。
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			| まだ飾り着けず御霊遷しのため瓔珞外され |  |  |  
 
	
		
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			| お仮屋のJAあきかわ戸倉支店からの出立つ | 吊り太鼓が宮神輿を先導 | 激しい神輿揉みも魂ふりもやりません |  
 
	
		
			| 檜原街道のお仮屋のJAあきかわ戸倉支店からの渡御では、
			おめでとう音頭でささやかに乾杯。担ぎ棒を四天棒にして、ここから氏子地区の渡御開始なのです。 神輿の先導は吊り太鼓だけで笛もひょっとこも花万灯も何も無い。
			ただ賑やかに子供神輿が先を行く。居囃子に送られた神輿には、トラックに乗った本郷囃子が後についているだけだ。
			素朴な例大祭です。
 神輿は先ず沢戸橋まで巡行しそこから下宿部落へ上り休憩の後、引き返して上宿部落へと巡幸する。
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			|  |  | 宮神輿が祭囃子と共に通り過ぎるとこの静けさ。 何事も無かったかなように、静かな日常の戸倉の昼間に戻るのです。
 春陽炎が揺らぐ中、何処からか祭囃子だけが風に乗り聞こえてくるのです。
 
 戸倉の野崎酒造の花傘万灯が静かに風にゆられてる。
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			| 風情漂う野崎酒造の右書き看板と酒林 |  |  |  
 
	
		
			| 武州南一揆。 戸倉城山の中腹にある三島神社の参道登り口の脇に武州南一揆の碑がある。
			一揆といってもこの場合、いわゆる農民一揆ではない。
			揆を一つにする土豪の連合体であった。はじめは源氏の白旗一揆や平氏の赤旗一揆といった、
			分裂していく同族血縁を集合する一揆であったが、それが不可能になったとき、
			利害を同じくする一定地域のなかで連合した一揆が生まれた。
			多摩川上流地域のそれを当時から武州南一揆と称した。
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			| 郷の鎮守社としての三島神社は正に一揆の拠点だったのでしょう。
			祠官や旧家に、室町時代の応永23年(1416)
			上杉禅秀の乱のとき武州南一揆に宛てた鎌倉公方足利持氏の文書などがある。
			しかし彼等はより大きく強力な相手に対して、弱小勢力が手を組んだ勢力だから、
			この場合、必ずしも全面的に従臣したわけではなかった。
			状況次第で敵にも味方にもなって保身する。
			禅秀の乱のとき持氏方についた武州南一揆は、
			永享の乱や結城合戦には反持氏方となり、やがて小田原北条氏に従った。 |  |  
 
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