|
伝承と伝統の民族文化遺産 |
|
|
祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
|
|
|
|
亀戸浅間神社 平成21年8月 (4年毎) |
神輿データ: 祭神: 木之花咲耶姫命 台座:三尺五寸(107) 建造年度:寛政2年 製作者:桃の井源弥
修復 行徳 中台祐信 特記: 平屋台造り 注意: 中神輿は本祭り2年目に渡御していた。 |
|
|
東大島の高層集合住宅団地に囲まれた亀戸浅間神社の宮神輿が朝靄のなか渡御 背後は高架の首都高 |
|
|
社伝によれば、日本武尊東征の時、弟橘媛は海神の怒りを宥めるため、走水の海に身を投じた。
後に媛の笄(こうがい=髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具)が現在の亀戸9丁目のあたり(旧称・高貝洲)に流れ着いた。
これを聞いた景行天皇は、この地に笄を埋めて塚を築き、祠を建てた。
大永7年(1527)、里人が甘露寺元長(かんろじ もとなが=室町時代・戦国時代の公卿・歌人)に勧請し、
富士山より木花咲耶姫を迎え、笄塚の上に社殿を建てて祀った。
これが亀戸浅間神社の創祀とされる。 |
安政2年(1855)の大地震で社殿が倒壊。明治11年(1878)、富士山より溶岩を運んで富士塚を築き、その上に社殿を再建した。大正12年(1923)、
関東大震災により、再び社殿は被害を受け、現在の社殿はその後に建てられたもの。戦災を免れ、戦前の姿を残す貴重な木造建築の社殿である。
平成10年(1998)、都の防災再開発事業のため、社殿が富士塚脇の現在地に移された。富士塚一帯は公園として整備されている。 |
|
亀戸浅間神社例大祭。 09.08.02.(日曜)
宮出し7時50分。宮入は15時半。氏子区域は亀戸9丁目ですが再開発により大半は高層集合住宅化。点在していた在郷氏子の人々は戸建て団地へ。
神社の氏子代表らと、地元の神輿会である浅間亀盛会(近年「亀盛睦会」きせいむつみかい、と改称)が例大祭を取り仕切る。
東京都江東区亀戸9丁目15-7 |
|
|
|
|
鳥居前の観衆を掻き分けて子供神輿が宮出し |
|
|
|
子供神輿が賑やかに担ぎだされると、宮神輿の宮出しです。
北鳥居は戦火の焦げ跡が付いたままです。 |
黒焦げ北鳥居前から宮出し |
激しい神輿揉みもなく鳥居へ一直線 |
|
|
戦前の建造になる社殿をはじめ、境内には富士講関係その他の石碑、石灯籠、焦げ跡も生々しい鳥居など、
戦災をくぐり抜けてきた石造物が安置されている。富士塚は柵で境内と隔てられているが、神使の猿や講元の石碑などがそのまま残っている。
|
|
|
|
祭礼行列の殿は乗馬の神主 |
周回路の背後には社殿が |
高層住宅エントランスから出る |
|
|
|
|
接待所の渡御も観衆は少ない |
全面通行止め道路を祭礼行列が行くが観衆なし |
|
|
4年に一度の例大祭だというのに、祭のかわら版も見当たらず、ただ渡御順路に青い例大祭幟が立つ。
地域社会無関心高層棟居住者が多いためか、霧雨の天候のためか、渡御順路には観衆見られず。
伝統の祭り文化が危ない!! |
|
正保年間(1644〜1647)ごろに、海岸の低湿地を開発して村が作られ、約250年前の「元禄図」に初めてその名が出ている。
当時比較的大きな島であったので、この地名がつけられたとされる。
「大島」の読みについては、弘化4年(1847)改版の「江戸町鑑」に「大ジマ」と濁音で呼ぶよう強調されている。
これは深川猟師町の一つであった大島町と区別して、ここを「大ジマ」と呼んだと推定されている。
その後1965年(昭和40年)の住居表示制度実施時に「おおじま」と読むよう決められた。 |
|
|