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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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御田八幡神社 平成22年 (8月第一日曜前日) |
神輿データ:祭神:誉田別尊 台座:二尺二寸(68) 建造年度:昭和10年代 製作者:行徳・後藤(直光
特記: 区域広く担ぎ手不足でトラックで渡御 9時半〜15時。延軒屋根・勾欄造り 平成21年修理 |
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トラックに乗って巡幸する御田八幡神社の宮神輿 |
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御田八幡神社大祭。'10.07.31.(土曜) 巡幸祭 宮出し9時半〜15時
氏子地域は国道15号線と並走のJR山手線内側の(旧東海道沿い)三田・芝地域と高輪1・2 丁目(江戸時代までの氏子区域)
品川沖を埋め立てた芝浦の3・4丁目と港南全域と広いためトラックでの巡幸祭です。
港区三田3−7−16.
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高台の静寂の中の拝殿 |
イベントPOP |
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和銅2年(709)、東国鎮護の神様として鎮祀され、
延喜式内稗田神社と伝えられた。寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座、
嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。
俗に「綱八幡」と称する。江戸開幕の元和5年(1619)現社地で造営を開始して寛永五年(1628)に遷座した。
明治7年に三田八幡神社と改称、同30年三田の冠称を御田の旧名に復し御田八幡神社と称号。
昭和20年の東京大空襲により、江戸時代の社殿を焼失する。
昭和29年に、本殿権現造、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所を再建した。 |
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出御式に参列の氏子衆達 |
木漏れ日の下朗々と祝詞奏上 |
車両に鎮座する宮神輿 |
四面の台座と胴そして鳥居に絡む龍と屋根紋を包むような龍の彫り物です。
御霊移しは前夜の宵宮祭り(金曜)で執り行われ、御魂返しは還御祭(月曜)で行われる。
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光る龍眼 |
威嚇する虎 |
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駒札は宮元で作札は岡田屋布施どう見ても宮神輿ではない。
「は組」の棟梁に聞けば、1300年祭に浅草雷門神輿師「岡田屋布施」で修復したため作札は岡田屋に、
駒札は所在不明のため宮本を取り付けたとのこと。 う〜ん!! |
駒札は宮元を掲げる |
作札は岡田屋布施 |
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出御式から急な坂をバックで下り |
誘導者が上手くドライバーをリード |
参道から国道へバックで出ていく |
神輿を載せしたトラックが、
神職をはじめ神社世話人やお囃子方が車列に加わり、氏子町内隅々を巡ります。
昨年平成21年は鎮祀千三百年奉祝式年大祭で一部の区間で担がれた。
勝文館ビル前から森永ビル前(三田・芝地区納所)、田町駅東口(芝浦地区納所)から水道局前(芝浦地区納所)、
品川駅港南口前広場(港南地区納所)から港南郵便局前、旧高松宮邸前広場から宮入と四か所で担がれた。
3〜5年ごとの担いでの渡御を検討中とか。担いでの渡御大賛成です。 |
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神社下の国道を三田目指し巡幸 |
周囲が都市化されて住民構成が変化し、山手沿いに民家は皆無で担ぎ手となる若者はいない、あるのは企業と高齢者のマンションのみ。
広域の氏子区域の芝浦3・4丁目と港南は新幹線や東海道、山手線等で遮断されており、
祭礼渡御参加者は数十名のみの都心の無関心社会の祭礼の宮出し風景です。残念です、寂しい。 |
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三田地名の由来: この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、
伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた=神社の祭祀などの運営経費にあてる領田)があったからともいわれる。
戦国時代までに、荏原郡三田郷として成立している。三田の名は、吾妻鏡の中の正嘉2年(1258)すでに記されている。
神社は海側斜面に位置する。江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開け、
さぞかし風光明媚であったと考えられる。
明治40年代芝浦の埋め立てが始まり、戦後は港南が埋め立てられ、その面影を失うことになる。 |
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