歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 4年に一度の東大島神社の本祭りは猿田彦が先導し棒の内側を担ぎ練り歩く
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    東大島神社  平成20年8月 (4年毎)

神輿データ: 祭神:天照皇大神 台座:三尺(92) 建造年度:昭和25年(1950)
  製作者:浅草・宮本重義  吹き返しに白龍を打ち出した大唐破風屋根・勾欄造り
 

四年に一度の東大島神社。08.08.03.
四年に一度のお祭り、宵宮でも宮神輿は担ぎ出される。待ちに待った本祭りですから。

早朝の本殿前で静かに佇む宮神輿。08.08.03.   東大島神社 本祭り。08.08.03.(日曜) 宮出し8時〜宮入14時
4年に一度の本祭りでは、宵宮でも宮神輿は担ぎ出され宮出し19時〜宮入21時で、 新大橋通りの南地区の八丁目を渡御。
神幸祭の日曜は北地区の七丁目を中心に渡御する。
本祭りの1日〜3日の期間中は夕刻から境内で納涼踊りが行われる。
祭神は天照皇大神で、社殿は朱色勾欄に囲まれて朱色一色です。

東京都江東区大島7-24-1。
社殿前に対峙して式典待つ宮神輿

狭い境内からの宮出しです。08.08.03. 宮神輿が境内より出てきました。08.08.03. 眩しいほどの朝日を浴びての渡御です。08.08.03.
鳥居狭く鳥居脇から宮出し 狭い境内から一気に鳥居前に 朝日を浴び背高神輿の渡御

東大島神社の宮神輿は 台座が三尺 (92) 建造年度は昭和25年 製作者は浅草・宮本重義。 吹き返しに白龍を打ち出した大唐破風屋根の背高神輿です。  

大島は江戸初期にはまだ陸地とも海ともいえず遠浅の砂州だった。 江戸城城下の拡大と新田開発で陸地化したときその面積が大きく大島(おおじま)と呼ばれたが、 元禄のころには埋め立てられて内陸と一体となり、開発されて大島村となった。
戦火に遭い戦後の区画整理でこの一帯は碁盤の目のような住居地になり、路地は道幅が極端に狭いのです。
担ぎ手達も心得ており、肩を入れ替え内側担ぎを頻繁に行う。
  四年振りの担ぎ手も肩の入れ方心得ています。08.08.03.

江東区大島は現在の環境からは想像も出来ぬ地域だったようです。
大島の釜屋とは鋳造業のことで、 近江商人が寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため大島村に移り、 幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。 そして大島は科学肥料創業の地でもあるのです。 大島1、2丁目にあった。キューポラの町だったのです。 やがて都市化の波に押されて鋳物業は埼玉県川口に移り、さらに群馬県渋川に移っていったのです。
 

路地中を祭囃子と掛け声が近ずいてくる。08.08.03. 甍の銭湯前を神輿は担がれていく。08.08.03. 神輿去った真夏の静けさです。08.08.03.
唐破風銭湯の「春の湯」を祭礼が わっしょいと賑やかに宮神輿が通る 祭列過ぎれば静寂を取り戻す銭湯

東大島神社の大唐破風屋根の背高神輿が賑やかに祭囃子とわっしょいわっしょいの掛け声に担がれて、 唐破風銭湯の「春の湯」の前を渡御していく。銭湯向かいは第三大島小学校の跡地。 行列が通り過ぎると真夏の静けさです。  


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