歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 諏方神社四尺三寸は下町を色濃く残す谷中と昭和レトロのよみせ通りを渡御
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


     日暮里諏方神社 平成20年8月 (3年毎)

神輿データ:祭神:建御名方命 台座:四尺三寸(130) 建造年度:嘉永3年(修復)
製作者: 不明  延軒屋根・胴太平屋台造り 台座が異様に大きい古神輿 
 

胴を深紅の晒しで覆う諏方神社三つ柏紋神輿。08.08.24.
三年ぶり渡御の諏方神社三つ柏屋根紋の宮神輿は胴を深紅の晒しで覆い渡御する

趣ある江戸文字と宮神輿絵のポスター。08.08.24. 狭い境内の高台にある諏方社殿。08.08.24.   日暮里諏方神社(すわじんじゃ)神幸祭。
'08.08.24.(日曜) 宮出し8時から宮入20時。
創建は元久二年(1205)で、源頼朝家臣の豊島左衛門経泰が勧請。 諏訪大社(長野県諏訪市と諏訪郡)の分社なので、御祭神は同じく建御名方命(たけみなかたのみこと)。 社名を「諏方」と表すのは、元禄時代作の軸の諏方大明神によるもので全国13000社の内数社のみです。
東京都荒川区西日暮里3-4-8 。
文字と絵が趣 鬱蒼とした上野諏訪台の高台

江戸時代には、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集め、 当時は「谷中生姜」の産地としても知られ、農家の人々が豊作の祈願に訪れたそうです。 ここ諏訪台からは遠く筑波山や隅田川などが見え、江戸時代から景勝の地として知られていました。 この一帯は当時は新堀(にっぽり)でしたが、日が暮れるまでいても飽きない「日ぐらしの里」 と呼ばれたことから、「日暮里」となったとか。
氏子町会は谷中地区に16、日暮里地区に9の25町会です。
 

社殿前のお仮屋に鎮座する宮神輿と発輿式。08.08.24. 下町の木遣の先導は粋ですね。08.08.24. 鬱蒼とした境内から宮神輿が顔を出す。08.08.24.
社殿前のお仮屋鎮座で発輿式 高張り提灯と木遣が先導の宮出し 境内や参道狭く宮出しは台車で

平屋台簡素ゆえお江戸神輿の風格醸し出す。08.08.24.   諏方神社の本社神輿は瓔珞を着け、胴は深紅の晒しで覆い渡御するのです。 台車に乗せ、担ぎ、また台車で移動を繰り返し渡御します。
延軒屋根で胴太平屋台造りで台座が異様に大きい古神輿で、 台座は四尺三寸(130cm) 建造年度は嘉永3年(1850)でお江戸の神輿の風格を漂わせています。
近年修復が施され鳳凰や小鳥、蕨手や三つ柏(かしわ)社紋が取り替えられている。建造者は不明です。

朝倉彫塑館前で渡御初回の担ぎで谷中霊園入り口から二度目の担ぎです。氏子町会はもう変わっています。   路地から解き放たれてゆったりと担がれる。08.08.24. ビシッと決める下町谷中の氏子担ぎ手。08.08.24.
谷中霊園入り口からの担ぎ 雨は止み3年振りに担ぐこの喜び

渡御に付き添う頭も多く、二天棒での宮出しも延命院山門前であっと言う間に四天棒を組み立て、 ここから担ぎ、しばらく行くと木が入り台車で巡行、また担ぎを繰り返しての渡御です。 全町会の氏子が担げるようにとの配慮なのでしょう。  

谷中霊園徳川家墓地から出立つの宮神輿。08.08.24. 見事に足並み揃った東桜木町会。08.08.24. 谷中霊園徳川家墓地の上野桜木2丁目から言問通りを上野桜木まで西進です。
谷中霊園徳川墓地参道からの担ぎ 担ぎ手は東桜木町会

渡御順路を台車で移動しては担ぐを小刻みに繰り返す。   まだまだだの担ぎ手に木が入る。08.08.24. 上野のお山を背後に木が入る。08.08.24.
上野桜木で東桜木町会に木が入る 池之端4丁目町会に木が入る

お舟祭り(諏訪下社例大祭)に倣っての小舟に乗る宮司。08.08.24. 難しき坂道での差し切りを見事に決める。08.08.24. 道幅いっぱいに担ぎ行く。08.08.24.
小舟に乗った宮司が真島町会へ 坂道お神酒所で真島町会の差し切り 黄色鉢巻の三崎町会の担ぎ

午前渡御谷中地区の真島町会の担ぎ。'08.08.24.
本社神輿を引き受けた谷中地区真島町会の担ぎで渡御再開です

午前中は谷中地区16町会を渡御してよみせ通りから開成高校に駐機し昼食後、 午後は日暮里地区9町会を渡御で、 しかも金メダリストの北島康介の道灌山通りにある実家の精肉店前での祝い差し上げに巡行するとか、 さすがお江戸の下町人情か、神社も氏子も粋な計らいです。
残念ながら曇り空での祭礼でしたが、 各町会の担ぎ手達は祭りに付き物の諍いもなく一糸乱れぬ清々しい担ぎ振りに感動しました。・・だが後日聞き及んだが、
残念! 渡御中の西日暮里2丁目町会で部外者の乱入騒ぎで神輿を落とす!
 

よみせ通りはかつて藍染川(北区西ヶ原から不忍池に流れ込む)であった。 大正12年(1922)に暗渠化され、幅8mの通りが完成すると朝市が立ち八百屋横丁となり、 横丁北にある延命地蔵尊の縁日の4のつく日には横丁の両側に500mに及ぶ夜店が並び、 大変栄えて自然によみせ通りと呼称されるようになった。 戦後いち早く復興し初音.坂下商店街になった。  



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