歴史の浪漫街道   お江戸の神輿 今回は日暮里地区から谷中地区へと毎回順路を替えて台座四尺三寸の大神輿が紅白の晒を巻いて渡御
伝承と伝統の民族文化遺産

祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    諏方神社 大祭 平成26年8月 (3年毎)

神輿データ:祭神: 祭神: 建御名方命 台座:四尺三寸(130) 建造年度: 嘉永3年以前(嘉永3年に修復) 製作者: 不明
特記: 延軒屋根・胴太平屋台造り・三つ柏屋根紋 台座が異様に大きい古神輿 胴に赤い晒巻き 瓔珞着けて渡御 日暮里と谷中を練る
 

言問通り谷中1丁目あだちや酒屋前。'14.08.24.
よみせ通り渡御終え言問通り谷中1丁目に出て威勢良い掛け声で大神輿を担ぎ出す

諏方神社POP.'14.08.24. お囃子獅子頭。'14.08.24. 稚児の御船、'14.08.24.   諏方神社大祭
14.08.24.(日曜)
宮出し8:00〜宮入20:40

午前:日暮里 午後:谷中
渡御順路は大祭ごとに毎回交互に変わる。

荒川区西日暮里3-4-8
大祭POP お囃子獅子頭 稚児の御船

諏方神社の創建は元久二年(1205)で、源頼朝家臣の豊島左衛門経泰が勧請。 諏訪大社(長野県諏訪市と諏訪郡)の分社なので、御祭神は同じく建御名方命(たけみなかたのみこと)。 社名を「諏方」と表すのは、古来の表記であり元禄時代作の軸の諏方大明神によるもので、現在では全国13000社の内数社のみです。  

休息所の開成高校内。'14.08.24. 開成高校から出立つ式。'14.08.24.
午後の部の谷中地区渡御の準備 道灌山通り開成高校から出立つ式

今回の渡御路順は午前 日暮里地区から 午後 谷中地区
(=開成高校14:00〜台車移動 谷中3丁目よみせ通り14:10〜谷中小裏坂町15:10〜 池之端3・4丁目17:00〜言問東桜木18:10〜朝倉彫塑館前19:30〜宮入20:40)
 

よみせ通りを渡御。'14.08.24.
午後の最初の巡行は三つ柏屋根紋の大神輿がよみせ通りを悠然と渡御して来る

よみせ通りで揉め事。'14.08.24. よみせ通りを渡御。'14.08.24.
揉め事に警護班や棟梁や警官が割って入る 何事もなかったように大神輿はジワリと前進

防災公園初音の森手前。'14.08.24.
よみせ通り商店街を抜けた谷中5丁目初音の森手前で休息の木

三崎町会お神酒所。'14.08.24. 差し上げのご挨拶。'14.08.24.
息合わないお神酒所前で大苦戦の差し上げ 三崎町会お神酒所でやっと差し上げのご挨拶

三崎町会の威勢良い雄叫び。'14.08.24.
三崎町会お神酒所を過ぎて路地中で担ぎ手達の威勢良い雄叫びが響き渡る

下町の雰囲気が漂う台東区の谷中にある旧三崎町。
谷中、駒込、田端の3つの高台に向かう地であることから三崎といわれたとも言われる。
江戸時代の元禄年間(1688〜1704)には谷中とは別の町屋となっている。 明治4年(1871)に谷中三崎町南側、谷中三崎町北側と2地区に分かれるが、 明治6年(1873)には大円寺など六ヵ寺を合わせ江戸時代と同様の谷中三崎町となった。
 

三崎町会の担ぎ。'14.08.24. 真島町会の担ぎ。'14.08.24.
胴太平屋台古神輿を三崎町会の担ぎ 真島町会が谷中2丁目郵便局を目指す

江戸期〜昭和41年の町名三崎の読み方は普通は「みさき」であるが, 祭礼の場合には「さんさき」である。(担ぎ手の茶色の鉢巻きに明記)。表記年代ははっきりしないが。  

言問通り谷中1丁目あだちや酒屋前。'14.08.24.
真紅の半纏着込んだ警護班が担ぎ手を補佐し言問通り谷中1丁目から次の渡御の池之端を目指す

台車に坂道を駆け上がる。'14.08.24.
池之端から台車に載せ行列警備班により威勢よく一気に言問通りの上野桜木の坂上に引き上げ

よみせ通りはかつて藍染川(北区西ヶ原から不忍池に流れ込む)であった。 大正12年(1922)に暗渠化され、幅8mの通りが完成すると朝市が立ち八百屋横丁となり、 横丁北にある延命地蔵尊の縁日の4のつく日には横丁の両側に500mに及ぶ夜店が並び、 大変栄えて自然によみせ通りと呼称されるようになった。 戦後いち早く復興し初音.坂下商店街になった。  


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