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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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松陰神社 平成23年10月 (2年毎) |
神輿データ: 祭神: 吉田松陰 台座:二尺三寸(70) 建造年度:平成11年 製作者:富山刑務所
特記: 総欅造り 延軒屋根 大鳥が大型で4天棒で担ぐ背高神輿 幕末維新祭り同時開催 |
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宮神輿を建造してから七回目の渡御となる本殿前での宮出しご挨拶 |
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松陰神社宮神輿渡御
平成11年建造の2年毎の渡御
'11.10.23.(日曜)12:30〜17:00
新建造鉄鳥居の初の潜り宮出し。
(=第20回萩・世田谷幕末維新祭)
奇兵隊パレードは13時〜14時で 世田谷区役所から商店街と神社
東京都世田谷区若林4-35
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松陰墓所の木戸孝允奉納鳥居 |
神事中でも本殿参拝は自由 |
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吉田松陰は天保元年(1830)長州藩(山口県)
萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれる。
一貫して人間愛と祖国愛の情熱の教育指導を行う。
井伊直弼が大老となり、安政の大獄で安政6年10月伝馬町獄舎で処刑される。享年30歳。
長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸(現神社境内)に、
明治15年松陰門下の人々が相謀り、松陰墓畔に社を築いて御霊を祀る。
社殿は昭和3年に建造。平成23年8月に東北大震災の影響で倒壊の恐れある神社鳥居を鋼鉄製黒色鳥居に建て替える。 |
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創建以来松陰神社には宮神輿がなく、平成11年に松陰神社の宮神輿が法務省富山刑務所内で建造された。
台輪幅二尺三寸(70cm)、大鳥が大きく高さ約六尺。
卍(左万字)と(右まんじ)があるが、吉田松陰の家紋「五瓜に左万字」を神紋とする。神輿屋根紋も同じ紋。 |
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背高な松陰神社宮神輿 |
五瓜に左万字の神紋 |
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本殿前で宮出しの神輿揉み |
担ぎ手に鼓舞する仲間達 |
差し上げで渡御のご挨拶 |
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宮出しの樹木生い茂る参道での雄叫びで鼓舞し合う |
本殿前左右に並ぶ石燈籠 |
境内には毛利元昭公を始め、松陰門下の伊藤博文、山縣有朋等の縁故者より明治41年奉献された32基の石燈籠がある。
その燈柱に刻されている文字は書家高田竹山の所謂、八分隷書体に成るもので貴重な文化財とされています。 |
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幕末維新祭り '11.10.23.(日曜) 13時〜14時
世田谷区役所から世田谷通り松陰通り商店街を幕末の志士と奇兵隊のパレードです
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維新祭りPOP |
山口萩の塾を模した松下村塾 |
雑多な装束集団の奇兵隊 |
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松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、
松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。
実際に吉田松陰が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。
松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ80〜90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、
伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。 |
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細く長い参道を観衆掻き分ける様にして宮出して平成23年建造の鋼鉄鳥居下からの渡御 |
世田谷若林地名の由来:
「若林」は応永8年(1401)に調布市深大寺の僧、花光坊長弁によって著された「私案抄」に初めて登場する。
若林とは、新田を意味する古い表現、または開発造成され植林された
若い木の並んでいるところを指すと考えられているが、正確な由来は不詳である。 |
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