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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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喜多見氷川神社 平成19年10月 (毎年) |
神輿データ: 祭神: 素盞鳴命 台座:二尺三寸(70) 建造年度: 不明
製作者:行徳・浅子周慶 大唐破風軒屋根 胴羽目・鳥居・台座までが木彫の神輿 |
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喜多見氷川神社。
天平12年(740)の創建と伝えられているが延文年間(1356〜60)に宮殿大破し、
ついで多摩川洪水のため古縁起・古文書など流失して詳細は明らかではないが永禄13年
(1570)の棟札が残されている。
渡御日:07.10.14.
東京都世田谷区喜多見4-26. |
鬱蒼とした鎮守の森の中に忽然と現われる喜多見氷川神社の社殿は
惜しくも昭和63年に被災焼失し平成2年に58坪の社殿として3億円を費やして再建された。
社前の二の鳥居は承応3年(1654)喜多見重恒・重勝兄弟により建立された。 |
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喜多見氷川神社と祷善寺跡(とうぜんじ)周辺は保存樹林で世田谷百景に選ばれている。
参道より社殿に向かって左側には民達の本源的な子孫繁栄の切なる願いで、
付近より出土した石棒が立石大神として祀られている。 |
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祷善寺跡: 喜多見小学校発祥の地。祷善寺は氷川神社の別当寺であったが,
明治になって神仏分離により廃寺となり跡地に明治6年に喜多見寺子屋が設立されて
現在の世田谷区立砧小学校となっている。 |
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素朴な郷土の祭りを今に伝える祭りポスター。
世田谷区無形文化財の「ふるさとの祭り囃子と舞」
の里神楽は異色な郷土芸能です。 |
喜多見氷川神社の宮神輿。
台座は二尺三寸で吹返しを大きく立ち上げた大唐破風軒屋根と
特徴ある蕨手そして胴羽目や鳥居・台座までが木彫の神輿です。
建造年度は不明です。 |
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厳粛に発輿式がとり行われる |
社殿を覆い御魂移しの儀が始まる |
白黒幕に覆われ宮司の懐に御魂が抱かれ |
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発輿式が定刻通り古式に則り厳かに執り行なわれます。
本来は村民氏子のみで行われていた神輿への御魂入れの儀が不特定多数の観衆の面前で執り行なわれています。
古来より貴い御霊を神輿に移す際は絶対に人目に触れぬように、
見ることは許されることではないと白黒の鯨幕が使用されています。
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覆い隠して神輿への御魂入れ |
御魂入れの儀が無事終了です |
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白黒の鯨幕:黒は高位の色であり尊重され、神事では古くから白黒の鯨幕が使われ、
一方凶事の色というのは鈍色(にぶいろ)(薄墨色)を使用するのです。 |
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喜多見氷川神社は9社の兼務社(本務社の宮司が兼務する社)を抱えている。
世田谷大蔵の氷川神社、宇奈根の氷川神社、祖師谷の神明社、砧の三峯神社、千歳台の稲荷神社、
岡本の八幡神社、鎌田の天神社、玉川の諏訪神社、喜多見の須賀神社。
この多くは同日の例祭であり発輿式に御魂入れの儀を執り行なう形式になったのでしょう。 |
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木遣終えて即神輿が担がれる |
掛け声勇ましく神楽殿前を通り |
鎮守の森から宮神輿が出る |
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鉄棒と猿田彦が大太鼓を先導 |
大太鼓は宮神輿とは別巡行路です |
お神酒所で宮神輿と合流ですが |
道案内の猿田彦と露払いの大太鼓が先導する宮神輿が後に付いていません。
大太鼓と宮神輿の渡御路が不思議な事に違うのです。 |
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神社鳥居前から渡御 |
鬱蒼とした樹木の路地中を |
農地も宅地化が進む路地を渡御 |
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田園風景の囲い林や田畑が色濃くのこる氏子町内の渡御です。
里芋畑の脇道を宮神輿がエイサホイサの掛け声と共に巡行です。 |
先人たちが時代を経て培ってきた掛替えのない祭りの仕来たりや伝統を途切らすことなく
現代に生きる我々も誇りを持って未来に伝承していきたいものです。 |
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