|
|
伝承と伝統の民族文化遺産 |
|
|
祭りだ!神輿だ!日本各地の神輿 |
|
|
|
|
木更津八剱八幡 平成23年7月 (毎年) |
|
神輿揉みせぬようにと差し上げて交差点横断させるが重たくて一気には大神輿上げきれない |
|
|
|
|
木更津八剱八幡 日時 '11.07.09. 土曜 神社宮出し 6時45分〜16時半
日曜 お仮屋 吾妻神社から 渡御開始7時半 宮入17時10分
|
大神輿関東一 |
八剱八幡社殿で境内は屋台並ぶ |
さすが関東一の八剱の神輿庫 |
|
|
人皇第12代景行天皇の40年、日本武尊御東征の折り、相模国(神奈川県)より此の地に渡らんとするとき、
浦賀沖で暴風雨に遭遇し船が転覆寸前となった。
そのとき妃橘姫が海の神の怒りを静めようとして、尊の身代わりとなって入水。
そして尊は無事に此の地に着いたが、姫の死を悼んでしばらく「当社」にご滞留になり・・・
との記述があり、定かではないが創建は古い。
源頼朝は鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営している。
千葉県木更津市富士見1丁目6−15。 |
|
|
|
|
奉舁(ほうよ)のため曳いてくる |
大神輿に迎え囃子を奏でる |
渡御のため曳き回し台車から馬へ |
神輿渡御の歴史も非常に古く、享保年間に書かれた文書に祭礼の様子が明瞭に書かれている。
現在の神輿は、嘉永3年(1850)6月創建。
その大きさ重さともに「関東一の大神輿」と称される。
その後30年に1度大改修が行われ、近年では平成元年に行われている。
東京湾アクアライン開通記念奉祝行事」として、
深川・富岡八幡宮、浅草・鳥越神社と当社八剱八幡神社の3基の大神輿奉舁が木更津で行われた。 |
|
|
|
|
東口一番街よりの渡御開始 |
先ずはゆったりヨサコリャの担出し |
担ぎ手対峙する木更津担ぎ |
|
|
|
介添え役の気力の台座持ち |
激しい木更津担ぎでジワリ前進 |
担ぎ止めの拍子木が入る |
威風堂々の台座4尺2寸、重量は本棒合わせて約2トンの千貫神輿。
担ぎ棒は本棒の2本のみ、瓔珞を付ける。先棒は神輿に向く木更津担ぎでの渡御です。
大神輿に肩を入れられる人数は36〜40名できつい担ぎで、精々3分で替わり引き入れては抜けていく。
神輿介助者は左右の横胴に各3名、
前後に各1名、台座四隅に大男の力自慢が腕を入れ、先棒舵取りと後棒に神輿押し役が付く。 |
|
|
|
|
交差点横断の差し上げ |
やっと悪戦苦闘の差し上げ |
指揮者のそのまま前々の声響く |
|
|
木更津担ぎで大神輿を気迫で押してきた |
オリャオリャ・ヨサコ−リャと大神輿押していく |
木更津では奉舁(ほうよ=神輿を担ぐこと)と、台車に載せて曳き回しを繰り返して渡御する。
担ぎ出しは静かに「よさこりゃ」「やっさいもっさい」の掛け声で進みます。
木更津担ぎともいわれ、神輿に向かい合い、船の魯を漕ぐ声、網を引く声と伝えられる
「オリャオリャ」「ヨサコ−リャ」の掛け声で勇ましく担がれるさまは見る者を圧倒する。 |
|
|
八剱八幡の黄金色の大神輿がオリャオリャ・ヤサコリャと木更津担ぎの熱気の渦に包まれ前進してくる |
木更津地名の由来:
人皇第12代景行天皇の40年、日本武尊御東征の折り、相模国(神奈川県)より此の地に渡らんとするとき、
浦賀沖で暴風雨に遭遇し御船が転覆寸前となった。
そのとき妃橘姫が海の神の怒りを静めようとして、
尊の身代わりとなって入水。
そのことにより、尊は無事に此の地に着き、姫の死を悼んでしばらくご滞留になり、
此の地を去ることをなさらなかったので、「君去らず」と呼ぶようになり、
なまって現在の「木更津」になったと伝えられる。 |
|
|
|
「おすすめ」: 時間の正確なJR内房線での木更津へ行くのが一番ですが、
東京湾アクアライン海ほたるを通過する高速バスも便利です。
木更津から東京・新宿へは(下り方面も同じです)、高速バスの方が乗り換えもなく、
また内房線・総武線での東京ディズニーランドの乗客の混雑もなく、
快適で時間的にも早いのです。
東京湾横断の距離は想像したよりも短くてたったの延長 15kmで、開業は1997年です。 |
|