歴史の 浪漫街道  日本各地の神輿。千鳥破風屋根の宮神輿が諏訪囃子に先導されて渡御する高津諏訪神社
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ!日本各地の神輿


    高津諏訪神社 平成23年10月 (毎年)

大鳥を気使う一の鳥居潜り。'11.10.09.
宮出しでは初っ端の二の鳥居潜りと一の鳥居の難関を鳳凰を見上げつつヨイトで潜る

諏訪町内の掲示POP。'11.10.09. 参道から拝殿望む。'11.10.09. 歴史を包んだ拝殿。'11.10.09.   高津諏訪神社
'11.10.09.(日曜)
宮出し10時〜
   宮入17時
例年第一週だが、今年は多摩川で市制記念の花火大会開催で一週遅らせての渡御。
高津諏訪POP 二の鳥居から社殿を望む 古き額と時代見つめてきた拝殿

天正18年(1590)に信州諏訪大社の大神の分霊を受け守護神として勧請した。 現在の社殿は庇に朱色の特徴がある大正4年(1915)の建造である。
祭神は建御名方神・大国主命子。   神奈川県川崎市高津区諏訪3-16-48
 

台座2尺8寸(86cm)の宮神輿は、作札は上州前橋神輿連制作、光明型神輿と記載の千鳥破風屋根神輿。 定かではないが、平成10年の建造とか。印象的な大正建造社殿の朱色ひさしを模した神輿なのか。   朱色の庇模した神輿。'11.10.09. 諏訪神社独特の朱色の庇。'11.10.09.
社殿の唐破風屋根の庇を模した 社殿の唐破風屋根の朱色ひさし

社殿脇の社務所前からの宮出し。'11.10.09. 社殿前の二の鳥居潜り。'11.10.09.
舞台の諏訪囃子に送られ宮出し まずは第二鳥居潜り参道へ 狭い参道を第一鳥居へと担ぐ

台座2尺8寸の宮神輿渡御を諏訪睦会が取り仕切り、担ぎ手は約15団体の応援です。 狭い境内だが樹木が多い第二鳥居を潜り、細い参道を第一鳥居目指す。  

廻りがより狭い一の鳥居潜り。'11.10.09. 境内出たがまだ渡御路は狭い。'11.10.09. 緊張ほぐれ解放感の神輿担ぎ。'11.10.09.
慎重に棒抱え第一鳥居に入り込む 鳥居抜け狭い神社廻りを渡御 やっと思い切り神輿を担ぎ出す

宮神輿を諏訪囃子奏でる車輛が狭い路地をゆったりと先導していく。
高津地区は北見方白髭神社と二子神社に渡御日ずらした諏訪神社と三か所で神輿が上がり、 担ぎ手同好会も三か所に分散しての忙しい応援だとか。
 

参道鳥居前に社碑と並ぶ地神塔。'11.10.09.   農家には地神講中という組織をつくり地神を祭る風習があった。 春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」  (じじん=農業の神・土地の神・五穀豊穣の神) の周りで祭礼を行う。 その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、 忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んで祝った。
時代の流れでほとんどが兼業農家に転じたので、古き良き風習も平成年代以降は地神講は寂れていった。
先人の営み伝える参道の地神塔

氏子地区渡御へと担ぎ手も興奮高まる。’11.10.09.
諏訪の氏子衆が細い路地の神社廻りで壁をかすめるように千鳥破風屋根の宮神輿を担ぐ

諏訪の地名の由来: 多摩川沿いの土地を開発して生まれた諏訪河原に始まる。 「新編武蔵風土記稿」には、小田原北条家が没落のとき、家臣の諏訪左近頼久が小机領寺尾村小黒に逃れ、 その後の多摩川沿いの地を開き、屋号を村名にしたと記録されている。 諏訪河原村の鎮守だった諏訪神社の由緒にも、信濃国の豪族・諏訪安芸守源頼忠の末孫である頼久が、 天正18年(1590)に諏訪神社の分霊をうけて勧請したとあり、 長野県の諏訪と地名の由来が深く関係しているに違いないようだ。  


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