歴史の 浪漫街道  日本各地の神輿。宮入でもっと担ぎたい担ぎ手と役員との激しい攻防の出来野厳島神社
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ!日本各地の神輿


    出来野厳島神社 平成23年10月 (毎年)

奉賛者宅へ差し上げでご挨拶。'11.10.23.
氏子奉賛者宅の表玄関への賛助お礼の宮神輿の差し上げご挨拶

水の神の波表わすPOP。'11.10.23. 例大祭のPOP。'11.10.23. 神社前や社殿は提灯の列。'11.10.23.   出来野(できの=日ノ出)厳島神社
'11.10.23.(日曜)
 宮出し9:00〜 宮入15:00
 宵宮は13:00〜15:00渡御
神奈川県川崎市川崎区日ノ出2-6-3
川崎区大師駅若宮八幡宮の兼務社
水神の祭礼POP 渡御案内POP 祭礼提灯に囲まれた社殿

稲荷新田の開発の寛永2年 (1625)以降に新開地の風水害からの御加護を祈念して勧請された。 祭神は水の神の市杵嶋比売神(いつくしまひめのかみ)でかつては出来野弁財天と呼ばれた。
海苔養殖の守護神として崇められた。 境内社に出来野稲荷神社がある。
 

神社の北側からは東京湾に出来野川(堀)と呼ばれた水路が延び、海苔とりのベカ舟が係留 される「出来野河岸」には海苔の干し場や名産の長十郎梨やイチジクが積まれていた。 海の幸の塩で溶けた二基の庚申塔 (出来野庚申地蔵菩薩の幟が立つ) に漁業で栄えた往時がしのばれる。   出来野稲荷神社。'11.10.23. 掛け塩で溶けた庚申塔。'11.10.23.
境内社の出来野稲荷神社 掛け塩で溶けた庚申塔

神社境内の銀杏の大木は大師の海を航行する漁船やベカ舟、回漕船の目印であったという。 今は数本が残るのみだが、昔は森のように大木が並んでいた。 また干潮時には2kmの沖合まで干潟がひろがり、海沿いの防潮堤には松並木が連なり、脇を大師線が走っていた。  (当時偲ぶ昭和初期の写真が残されている)  

神社前で大きく振られる激しい神輿揉み。'11.10.23. 広い交差点を左右に押されてくる。'11.10.23. 反対側の道端まで押してくる。'11.10.23.
神社前交差点での神輿の大揉み 神輿を大きく激しく左右に振る 交差点一杯使い激しい神輿揉み

神社前交差点で神輿を激しく左右に振る渡御最後の神輿揉みです。 前棒担ぎ手は大きく左右に振られ、時には腰砕けのようになり神輿が沈み込む。
存分に神輿揉みができたのか、担ぎ手は神輿を鳥居潜らせ境内に入り込む。
 

やっと宮入の鳥居潜り。'11.10.23.   台座二尺(59cm)の宮神輿は、戦後の建造だとかで、ずっと飾神輿であったとか。 平成5年(1993)に全面改修工事が施され、社殿右側壁面には修復奉賛会記念額と賛助者名が掲げられている。 以降毎年渡御して、今回は19回目の渡御になる。
神輿には東京浅草・宮本重義の作札が付いている。
鳥居前は出来野堀であった

あえて神輿ずらして木を打たせない担ぎ手。'11.10.23. 社殿前で迫力ある神輿揉みと抑えこみの攻防。'11.10.23.
興奮の担ぎ手は真直ぐ入れず指揮者木が打てない 鼻棒のきかぬ担ぎ手を引き抜く留まるの攻防戦

神社前で神輿を左右に激しく振る神輿揉みと、 境内での担ぎ手の「まだまだ!担がせろ!」と役員の「みこし納めろ!」の激しい攻防戦が見せ場なのです。

「さあ納めろ」「もっと担がせろ」の激しい攻防戦。'11.10.23.
社殿前での役員「さあ納めろ」担ぎ手いやいや「もっと担がせろ」の境内での宮入攻防戦です

出来野地名の由来: 新田開発のために大師河原に移住してきた池上家二十一代幸広が、 弟・七左衛門、小島六郎左衛門と協力して開墾したのが稲荷新田(現在の大師河原・殿町〜日ノ出)で、 七左衛門家(七稲荷組)、六郎左衛門家(六稲荷組)によって所領が分けられた。
七稲荷新田に属した現在の日ノ出・出来野と昭和の一部が、後の字出来野耕地となったが、 日ノ出(1〜2丁目)が出来野の本村であった。 耕地整理によって昭和11年(1936)に東の海上に昇る太陽にちなみ現町名の日ノ出に改称された。
日ノ出二丁目の南には出来野の氏神、弁財天社(厳島神社)があり、 ここはまた、長十郎梨の発祥地です。 明治26年(1893)当麻辰次郎の梨園で発見され、大正時代には全国の八割の生産量を占めた。 江戸時代から続いた梨産地も、川崎区の工業化で梨園は姿けし現在は作られていない。
 

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