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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ!日本各地の神輿 |
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比々多神社 三宮祭 平成24年4月 (毎年) |
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宮出しのため二天棒の内側に肩を入れての担ぎて境内から狭い参道鳥居下に |
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境内神事祭場を示す又木と大幟 |
5本の縄に数個の鈴付けた拝殿 |
境内社五社の石造り祠が佇む |
比々多神社例大祭 '12.04.22.(日曜) 例年22日定日 渡御 13時〜17時。
伊勢原市三ノ宮1472。ご注意 小田急伊勢原駅から バス便一時間一本です。
社伝によれば、神武天皇6年(紀元前655)大山を神体山として豊国主尊を祀ったことに始まるとされる。
明応年間(1492〜1501)戦火により社殿等灰燼に帰し、現社地に遷座。
天正19年(1591)徳川家康は朱印地10石を寄進した。 |
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祭礼先頭の金棒と社旗が鳥居を |
宮出し参道石段をジワリと下りる |
鳥居下からイザあばれ神輿に |
氏子の三之宮・栗原・神戸地区の青年は、立ちお神酒・御火焚・宮詰などといわれる伝承の仕来りを行い、
13時神社から金棒・猿田彦・唐櫃・神旗・神職・役員などによる神幸祭が出発し、
繁栄を願う意味の「イャ〜ト〜サッセ(弥遠に栄え賜え)」との掛け声で神輿を担ぐ。
神輿には箪笥がついているが「どっこい担ぎ」でなく江戸前担ぎ。
箪笥は、拍子木などの代わりに合図に使う程度。
「三之宮」「栗原」「神戸」地区を「三之宮・栗原」「神戸」の担ぎ手に引き継ぎながら神戸地区の「行在所」へ行く。 |
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掛け声と共にぶれながら渡御 |
傾きを直せぬままの渡御 |
先棒は大きく左右に振れる |
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神社前通りで三之宮青年部に担がれ早くも大きく揺れながら菊と桐の屋根紋の暴れ神輿の本領発揮 |
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参道畦道渡御の台座持ち |
担ぎ手が大山詣での神体山登り |
神戸青年渡しまで台車での渡御 |
猿田彦や担ぎ手が清めの大山になぞった清めの神体山登り。
氏子役員全員が持つ笹杖は渡御路の道祓い清めのささら竹なのでしょう。
氏子青年部のみの渡御のため、参道入り口のお山から引渡しまでの渡御路は台車での引き回し。 |
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三基のからくり人形山車 |
三之宮の加藤清正人形 |
栗原の熊谷直実人形 |
神戸の仁木弾正人形 |
15時から祭事が行われ、「神戸」「栗原・三之宮」の担ぎ手に引き継がれながら神社へ還幸する。
順路の途中に東名高速道路が横切っており、その神社側の道路で午前中に神社境内の倉から出した3台の山車が組立られる。
還幸の行列の後に続いて3台の山車も神社へ向かう。
神社へ着いた神輿は社殿に置かれ、3台の山車も境内に並び、17時「ちまき行事」といわれる餅撒きが行われる。
その後、山車は境内で20頃まで囃子を演奏し、その後分解され倉に納められるという。
また境内では、12時から神楽殿で里神楽が行われ、多くの植木市や露店が並ぶ。 |
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黒屋根の宮神輿がからくり人形山車の三基に見送られ東名を潜り氏子地区へ台車渡御 |
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神輿庫に鎮座の安政旧宮神輿 |
相模国府祭りで担がれる三之宮 |
垣澤社中の伝統芸能の里神楽 |
旧宮神輿は安政年代(1850)の建造。現本社宮神輿は平成6年の建造です。
相模国の三之宮は、5月5日の国府祭に参加する相模六社の一つ。有名な座問答では、
上座を争う寒川神社と川勾神社の宮司に対し、比々多神社の宮司が「いずれ明年まで」と仲裁する。 |
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伊勢原地名の由来:
江戸時代に伊勢の国出身の旅人が大山参詣(大山詣りは行者とも呼ばれ、白の行衣、菅笠に手甲、脚絆、キゴザを背負い、腰に鈴をつけ
「六根清浄」の掛念仏を唱えながら大山道を歩いた。
遠方の講社は代表による参拝が多く、近くの講社は総詣りによる登拝が中心であった。)
の際に、水音が聞こえるこの地の原野に目をつけ、代官の許可を得て開墾し、
伊勢神宮の分社(現伊勢原大神宮=伊勢神宮と同じく内宮と外宮の二つの神殿)
を元和六年(1620)に創設したことに由来するとされています。 |
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