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町家建築の歴史的遺産 |
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大正浪漫・看板建築/品川エリア |
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旧品川宿の看板建築の見事に新生された飲食店。
宿場町の趣が漂う商店街に老舗うなぎ店だった休眠店舗を
特定非営利法人(NPO)の「東海道品川宿」による再開発の飲食店。
店名は彼らの意気込みを表現してずばり「居残り連」です。
昭和初期の建築のレトロな外観を維持して店内は現代的な空間で
1階は開放的なキッチンを囲むカウンター方式で2階はテーブル方式です。
東京都品川区北品川1-22。 |
特定非営利活動法人。 (NPO法人)。今、地域再開発の名目で民の遺産である看板建築や
蔵店舗、老舗店舗が消滅しようとしています。我々の先人達の貴重な遺産が日々消えていこうとしています。
誠に残念でなりません。消滅させてしまった貴重な建物は2度とは蘇ることはないのです。
孤軍奮闘されど諸般の事情でやむなく維持断念した店舗たちの存続させる方法はNPOの活用でしょうか。 |
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保存状態が非常によい高輪の三徳部品の看板建築。交通量が最も多い国道1号線に面していながら
建物の正面も裏側も痛みが殆どないのは定期的に維持管理が施されているからでしょう。
東京都港区高輪3丁目22。撮影・05.10.14. |
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旧東海道品川宿の店舗兼住居の看板建築。大正浪漫を醸し出す看板建築であるが
残念ながらこの建物は使用されておらず特に裏側の建物全体の痛みが激しい。
東京都品川区南大井1丁目9。撮影・05.02.25. |
旧東海道の街道幅をそのまま残す品川宿場通り商店街角地にある看板建築。
東京都南品川1-8。撮影・05.03.16. |
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三田桜田通りに面した元は明治乳業販売店。
東京都品川区三田5丁目11。撮影・05.03.09. |
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京急新馬場駅前商店街のまだ現役で活躍の看板建築たち。
この商店街と旧東海道の交差地点は品川宿本陣跡ですが立て看板のみが
往時を伝えている(現聖蹟公園)
品川区北品川2丁目新馬場。 |
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旧東海道北品川宿の星野金物店。
北品川本通りに面した店舗は旧東海道の道なりの菱形に構え、建物は正四角形の造りです。
タイル張りに菱形のガラスを嵌め込んだ窓。屋上と庇の銅板は左右対称のレイアウト。
時代を感じる店舗です。創業は明治時代で125年経過とのことです。 |
品川宿。江戸四宿の1つ(他は千住宿、板橋宿、内藤新宿)。
中世には既に品川湊として発展していたが、徳川家康による伝馬・宿駅制度の整備に伴い、慶長6年(1601)
ごろに正式に東海道の第1宿となる。当初は北品川宿と南品川宿の2宿で伝馬役を務めていた。その後北側に
品川新町ができ遊里化して、南北両宿から非法と訴えられ、享保6年(1722)毎年歩行(かち)人足12,000人を
負担することで品川新町は品川宿に加えられ歩行新宿(かちしんじゅく)と呼ばれるようになった。
本陣は北品川宿、脇本陣が南品川宿と歩行新宿におかれた。遊所として北の吉原、南の品川と称せられた。
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ジェームス坂の杉浦商店。
歩道では自転車と車椅子が譲り合い店先では白菜の手入れそして対面販売いい光景ですね。
品川区南品川6丁目7。 |
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英国人ジョン・M・ジェームス:慶応2年(1863)28歳の時来日した。
そして坂本竜馬等とも知り合い後に日本海軍創設に貢献し明治5年海軍省雇入れ以降幾多の変遷を経て
明治8年(1875)ごろ現在の三越ゼームス坂マンション裏手に居住。
当時、浅間坂と呼ばれた急坂を人馬の通行しやすく自費で開拓し品川沖が見える邸が坂の途中にあったので
ジェームス坂と呼ばれるようになった。隣人に慕われつつ明治41年70歳にて没した。
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青梅街道沿いの看板建築たち。
杉並区善福寺3−1。井草八幡宮参道前の交差点を挟んだ看板建築で
八幡宮参拝者の休息所だったのか間口が広い。八幡宮や善福寺の四季折々の
催しに多くの民が集まった往時の賑わいを感じます。
右側。杉並区高円寺南2丁目18。地下鉄新高円寺駅前の雑多な商店街の中で保存状態がよい看板建築です。
撮影共に・06.01.12. |
青梅街道沿い杉並桃井商店街の看板建築たち。
四面道交差点から青梅街道沿いに続く商店街の現役の看板建築達です。この商店街には
昭和初期の店舗も点在していて街に昭和時代の風情や味があります。
杉並区桃井1丁目2〜4。 撮影・06.01.12. |
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四面道。青梅街道が環八通りを跨ぐところを四面道陸橋、四面道交差点という。
土地の人はこれを「しめんと」というがもともとは十字路のところに在った秋葉神社の角柱の灯籠
(四面塔・四面灯籠)がに立っていて、それで「四面塔の辻」といわれ灯籠が撤去されて以後、
いつの頃か「塔」の字が「道」に誤るようになって定着した。
なお秋葉神社の境内には、江戸から四つ目の一里塚があった。 |
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