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文明開花の歴史的遺産 |
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孤高の時計塔 |
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札幌時計台 (旧札幌農学校演武場) |
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都会の喧騒を遮断するかの様な小雨に包まれて静かに時を刻み続ける札幌時計台 |
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札幌時計台(旧札幌農学校演武場)
国指定重要文化財。札幌市中央区北1条西2丁目。
北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として明治11年(1878)10月に建築された。
この建物はW・S・クラークの後を継いで教頭となったW・ホイラーによって構想されたもので、
当時アメリカ中・西部で流行したバルーンフレームと呼ばれる
飾りの少ない簡素な木造建築様式をモデルとしている。
後に設置の時計塔の4面にローマ数字の文字盤を持つ大時計は、
ボストン市ハワード社製の動力に錘を利用した機械式塔時計です。
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黒色の時針と分針 |
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時計台(演武場)は明治11年に完成したときには、時計がなく小さな鐘楼のみでしたが、
開業式に出席した開拓長官黒田清隆の発案で、時計の設置が決まりました。
明治14年8月の設置以降、明治35年ころまでは「農学校の大時計」といわれていましたが、
大正時代に「時計台」と呼ぶのが一般化したようです。 |
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敷地内の樹木が生い茂り時計台を周辺の喧騒や騒音から守っているようです。 |
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明治14年から時を刻み続ける時計台 |
右手から望む時計台 |
澄んだ音色を特徴とする鐘は東京の工部省赤羽工作分局で制作されたといわれている。
時計塔正面下部の「演武場」と書かれた木額は、明治維新の元勲岩倉具視 (元勲=維新を実現し功績あった者、
西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通ら。公家出身では三条実美は太政大臣で岩倉具視は右大臣) の筆で、
文武両道を目的とした建物として当時最もふさわしい名であったといわれています。 |
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時計塔の大きさは (説明板より)
塔の高さ:約20M 長針:85CM
短針:63CM 材質はなんとスギです 文字盤:亜鉛板(点検開放口がある)
文字盤の直径:167CMです。 |
斜め左より仰ぎ見る |
NSビルより望めばクッキリ赤い星 |
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時計台の時計は電気や電池などを使わない、地球に優しい時計です。
正式名称は「時打重錘振子式四面時計」で、
動力となるのはおもりの力で、このおもりを人力で週に2回巻上げています。
時計台の時計は昼も夜も休むことなく動き続け、鐘は毎時間、時の数だけ鳴り、
(1時は1回、2時は2回・・・12時には12回)1日に156回鳴ります。 |
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背後から望めば小雨に濡れた屋根が紅色に反射 |
暖炉用煙突のある屋根 |
風雪に耐えた時計 |
時計台の赤い星は開拓使のシンボルマークです。
北の大地を開拓するという強い精神を持った人たちが北極星をシンボルマークとしたのです。
時計台には17個の赤い星があります。道庁や札幌ビール会社の星も一緒のシンボルマークです。
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札幌地名の由来:
札幌の名の語源については、アイヌ語の「サリ・ポロ・ペッ」
(その葦原が・広大な・川)とする説と「サッ・ポロ・ペッ」(乾いた・大きな・川)
とする説などがあります。
アイヌの人が住んでいた蝦夷地は、明治2年(1869)に北海道と改称されて、
開拓使が置かれ札幌本府の建設が始まりました。
判官・島義勇(佐賀藩・しま よしたけ)は、円山の丘からはるか東方を見渡し、
街づくりの構想を練ったといわれています。明治8年(1875)、最初の屯田兵が札幌琴似に入植。
人々は遠大な札幌建設計画に基づき、鉄道を敷き産業を興して、道都・札幌を築きました。 |
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