歴史の 浪漫街道  孤高の時計塔  風雪に耐え休むことなく時を刻み続ける川崎市役所本庁舎の孤高の時計塔
文明開化の歴史的遺産


孤高の時計塔


    川崎市役所本庁舎の時計塔

川崎市役所本庁舎。09.11.01. 凛として建つ時計塔。09.11.01.   川崎市役所本庁舎の時計塔。
昭和13年(1938)鉄筋コンクリート造りで、市役所本庁舎はオランダのヒルベルスム市庁舎を模したとされる。 設計は各地の教会建築に名を残す元田稔。
川崎市川崎区宮本町1番。
川崎市役所本庁舎 本庁舎の時計塔

昭和13年(1938)の建設から現在まで64年間、戦前・戦中・戦後と現役です。
時計塔の高さは地上39.6mで、8階建ての高さに相当する 。
内部は3メートル四方の空洞で、螺旋階段最上部の格子の窓から街を一望できる。 戦時中は迷彩色を施され、空襲監視塔として利用されたりしました。 正面玄関の本館は昭和34年(1959)に、3階から4階建てに改築された。
  建設当時は多摩川河口の羽田沖合が眺望できた。09.11.01.

毎日午前8時から午後5時の毎正時に、 自動にてウエストミンスターチャイムのメロディーが奏でられた後、時を打っています。  

川崎宿の証のいさご通りの立て看板。09.11.01.   東海道53次 川崎宿
多摩川六郷橋を渡って川崎駅前方面に折れて行くと「新宿という町」という立て看板に出合う。 説明番によると川崎宿は他の宿場より遅く作られたため、このあたりを新宿と呼んだのです。
川崎の商店街の「砂子通り」(いさご=市役所前交差点より一本川崎駅寄り)が旧東海道です。 砂子通りには田中本陣跡があったが、今その面影は残っていない。 品川宿と神奈川宿の距離が長すぎ、両宿の経済的な負担が大きかったため、 その後幕府に申請、新たに川崎宿が設置された。
宿場の面影なく立て看板だけが証

砂浜の低地で「六郷の渡し」があった六郷川(多摩川)は、江戸を出て初めて行き当たる大きな川。 多摩川の氾濫時には冠水し元和九年(1623)川崎宿が設置されたときは橋があったのに、 何度目かの六郷橋流失のあと、 宝永六年(1709)に舟渡しになり、それまでさえなかった宿場が盛りかえしたそうです。
天保14年(1843)の川崎宿の人口は2433人と旅籠は71軒と本陣は2ヶ所。
    お江戸の東海道 参照:   東海道 川崎宿
文化10年(1813)に徳川幕府第11代将軍、家斉が厄除に訪れた事から厄除け大師として広まり、 以降川崎大師詣でが流行る。道理で人口の割に旅籠が多い。
 

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