歴史の 浪漫街道  孤高の時計塔  学び舎の小学校 歴史刻み時おも刻み続ける余丁小学校の時計塔
孤高の時計塔


学び舎の時計塔 小学校


    新宿区立余丁小学校

高台に建つ余丁小学校。09.12.02. 脇の通路から時計塔を望む。09.12.02.   新宿区立余丁小学校(よちょう)
明治35年4月 牛込区大久保余丁町に余丁町尋常小学校として開校。
昭和21年 児童激減で閉校するも、昭和31年5月「東京都新宿区立余丁町小学校」として再開校された。
東京都新宿区若松町13−1。
若松町団子坂通り沿いはネット 通常口通路から望む時計塔

昭和58年(1983)12月 鉄筋コンクリート造り4階建て、時計塔5階建て、新校舎落成。
平成12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「新宿区立余丁町小学校」と改称。
小学校の住所は新宿区若松町で、若松町団子坂通りを挟んだ南側が余丁町なのだが。
 

昭和58年建設の時計塔の最上階は吹き抜けで、なんの装飾もない文字盤と針はシンプルそのものです。   時計塔の最上階は吹き抜け。09.12.02. シンプルな文字盤。09.12.02.

余丁町(よちょうまち)は幕府の御旗組(おはたぐみ)の居住地だった。
御旗組とは徳川家の旗印、いわば軍旗を預かった組織です。
町内に四本の横丁(路地)があったから大久保四丁町が通称だったが 明治5年(1872)の明治の改編のときに「四」は「死」に通ずるというので余丁町の表記に改められた。 昭和61年(1986)住居表示で「東新宿」となる予定であったが、 住民運動が行政を動かし由緒ある江戸の地名保存がなされた。
この動きが共感を呼び、有識者の賛同も得て全国的な運動となり「全国地名保存連盟」へと発展していった。 しかし旧町名復活の動きにもかかわらず、平成の大合併で全国の由緒ある地名が変わっていった。残念だ!!
 

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