歴史の 浪漫街道  赤煉瓦建築は文明開化の明治浪漫です。中央停車場、法務省本館、貴重な遺産を次世代に
文明開化の歴史的遺産


明治浪漫 赤煉瓦建築 T


日本の近代史と共に盛衰した赤煉瓦建築は、まさに明治浪漫です。 明治新政府が推進した殖産興業や富国強兵・脱亜入欧などの一連の政策の推進や西洋建築、 散髪、洋装、洋食などの奨励がみられ、 世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった日本の近代史と共に盛衰したのが赤煉瓦建築です。 今なお歴史の証人として街の片隅に佇み、 近代化や欧化主義の新進気鋭の文明開化を醸しだす明治浪漫を次世代に伝えよう。


  赤煉瓦とガラス窓に映る甍   赤煉瓦の東京中央停車場(東京駅舎)

赤煉瓦東京駅舎の北口駅舎。08.01.25. 赤煉瓦東京中央口駅舎。08.01.25. 赤煉瓦東京南口駅舎。08.01.25.
丸の内北口駅舎 丸の内中央口駅舎 丸の内南口駅舎

赤煉瓦駅舎丸の内側一階部分全面に修復工事ネットが張られる。08.01.25.
赤煉瓦の東京駅舎が建設当時の容姿復元補修工事のために、 丸の内側は工事ネットが全面に設置。無粋な白い排気塔も撤去願いたい。

赤煉瓦東京駅舎の八重洲側高層ビル北棟と南棟は建っていません。05.01.31.
3年前の05.01.31.の写真取材時には八重洲側の高層ビル群は建っていません。 建物の保存にも周辺の景観維持が重要ですね。

震災や戦火に遭った赤煉瓦駅舎も大正3年建設当時の堂々とした威容に復元される。
赤煉瓦駅舎は2012年春の完成を目指して南北のドームの円屋根と三階部分を 大正3年建設当時の容姿に復元される (JR東日本パンフより)

誰もが知っている東京中央停車場(開業時に東京駅に改称)  ルネサンス風建築の赤レンガ駅舎は国の重要文化財です。東京都千代田区丸の内一丁目9番1号。
辰野金吾設計により明治41年(1908)に着工し職工人延べ74万人により6年半の歳月をかけて大正3年(1914)に竣工。 竣工当時は長さ335m 高さ46m の巨大な駅舎で赤煉瓦3階建でした。 大正4年(1915)には丸ノ内中央口からの南半分を占める東京ステーションホテルが開業。 関東大震災にも持ち応えた赤レンガ駅舎だが昭和20年の焼夷弾により炎上する。 昭和22年(1947)修復時に現在の二階建てとなる。
設計者 辰野金吾 安政元年(1854)〜大正8年(1919):東京帝国大学工科大学(現東大工学部)学長。 代表作 日本銀行本店 中央停車場 日本銀行京都支店等
 

赤煉瓦駅舎の現在の復元補修工事前に取材していた写真です。終戦後いち早く修復された丸の内北口ドーム内部と 丸の内中央口脇通路に保存されている建設当時の赤煉瓦建物です。   淡い照明に浮かぶ北口ドーム内の回廊。04.11.25. ドーム内天井は円形。04.11.25. 構内に保存の建設当時の赤煉瓦建物。04.11.25.
丸の内北口ドーム内の回廊 外観とは異なり ドーム内部は円形 建設当時の赤煉瓦

東京中央停車場:  明治22年(1889)に神戸まで開通した官設鉄道東海道本線の始発駅の新橋駅と、 私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、 明治29年(1896)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。 江戸時代からの繁華街である京橋側ではなく、建設当時はまだ野原だった丸の内側に作られた。 皇居の正面に設定され、丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口がつくられ、 国家の象徴的な位置づけであった。なお、現在の行幸通りは、まだ皇居前広場まで開通していなかった。  

  赤煉瓦とガラス窓に映る甍   法務省旧本館

法務省旧本館と正門。08.01.25. 壮麗な法務省旧本館。08.01.25. 円錐形の守衛塔。08.01.25.
法務省の正門と旧本館 反復するアーチ窓の法務省旧本館 円錐形の守衛塔

敷地内から望む守衛塔。08.01.25. 左右対称両翼に張り出している北棟。08.01.25.た 南棟から本館を望む。08.01.25.
敷地内からの円錐形の守衛塔 法務省の北棟 法務省の本館と南棟

ドイツネオバロック様式の見事な外観の煉瓦造3階建の法務省旧本館。 理由あっての設計なのか何故か一階部分が全て半地下となっているのには理解できない。 明治28年(1895)竣工。国の重要文化財。東京都千代田区霞が関1-1-1。
近代国家としての体制を整えるために、 西洋式の建築による官庁集中計画を作ろうとした明治政府により招かれた ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマン(ドイツ人)および河合浩蔵の設計です。
関東大震災ではほとんど被害を受けなかったものの、 昭和20年(1945)の東京大空襲により煉瓦壁と煉瓦床を残して焼失したため、 屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、昭和25年(1950)から法務省本館として利用された。 その後、東大の村松貞次郎・堀内正昭の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により平成6年(1994) に外観が創建時の姿に復元された。
 

誠に残念ながら法務省旧本館の東側中庭は一般公開されていません。 ウオークしても目に付かない場所です。やむなく法曹会館レストラン通路ネット越しからの撮影です。 中庭に出られないが手前(北棟側)三階の資料館ギャラリーのみが一般公開されている。   旧本館の東中庭からの中央棟。08.01.25. 三階が一般公開の旧本館の北棟。08.01.25.
東側中庭から中央部の棟 東側中庭から中央部と北側の棟

霞ヶ関官庁街: 法務省旧本館の敷地は元米澤藩上杉家江戸藩邸跡地です。 霞ヶ関官庁街全体は徳川家康が江戸城の築城の時に町割りとして、 江戸城下の南の桜田門外には外様大名と定めていました。 因みに東の大手門外から和田倉門外には 譜代大名。(現在の大手町ビジネス街) 西の半蔵門外から北の一ッ橋門外・神田橋門外には 旗本・御家人の町割りでした。  

  赤煉瓦とガラス窓に映る甍   旧近衛師団司令部庁舎 (東京国立近代美術館工芸館)

旧近衛師団司令部庁舎西棟。08.01.25. 司令部庁舎正面の本館。08.01.25. 司令部庁舎東棟からの全景。08.01.25.
近衛師団司令部庁舎西棟 司令部庁舎正面の本館 近衛師団司令部庁舎全景

八角塔屋付きスレート屋根。08.01.25. 司令部庁舎正面玄関。08.01.25. 司令部庁舎北側壁面。08.01.25.
司令部庁舎屋根 短靴の音が響きそうな司令部庁舎正面玄関 ひっそりした司令部庁舎北側壁面

旧近衛師団司令部庁舎。明治43年(1910)竣工。設計 田村鎮( 旧陸軍技師)
煉瓦造2階建て八角塔屋付きスレート葺、 両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式で国の重要文化財です。
戦後長らく荒廃して放置されていたが昭和52年(1977)5年におよぶ修復工事で外観は当初の姿に復元されましたが、 内装はほとんど改装されて近代美術館別館としてオープンした。 東京都千代田区北の丸公園1-1。
 

近衛師団:
皇居の警護および天皇の儀仗兵としての任務を与えられた陸軍の師団。
明治新政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存して明治4年(1871) 政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。明治5年(1872)近衛都督西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組。 明治24年(1891)山県有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、 平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加することとなった。 昭和20年の終戦で師団は消滅する。
  青銅製の陸軍徽章の五芒星。08.01.25.
床下通風孔に嵌め込まれた陸軍の五芒星


煉瓦は粘土や頁岩(けつがん)泥を型に入れ、窯で焼き固め あるいは圧縮して作られる建築材料。 通常は赤茶色で直方体をしている。 焼成レンガは土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。

煉瓦が建築材料として使用されたのはメソポタミア文明の時代からである。 乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていた。紀元前3000年頃からは焼成煉瓦が使用され始め、 紀元前1600年からは金型を使って様々なスタイルに表面を細工した焼成煉瓦も見られるようになる。 ヨーロッパでは煉瓦は古代から多くの建物に用いられてきたが、 煉瓦造でも表面を漆喰や石で仕上げることが多い。

日本で最初期に造られた煉瓦建築は幕末の韮山反射炉である。 お雇い外国人の指導で官営事業を中心に煉瓦の製造、建設が始まった。 明治3年、 日本初のレンガ工場が大阪府堺市に設立される。 明治中期頃には煉瓦職人も増え一般的な技術となったが、 耐震性の問題から関東大震災以降は、鉄筋コンクリート造が主流となってしまった。
 

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