歴史の浪漫街道 イチョウの名木達 杵築大社の大銀杏と歴史の彼方へ消え去った鑓水商人と絹の道の永泉寺
古木名木達の歴史的遺産


イチョウの名木達


  ityou-8-.jpg(1207 byte)   武蔵境 杵築大社

杵築大社銀杏がひこばえとは信じられぬ巨木。08.11.26.   杵築大社の千本イチョウが社殿を包み込み境内狭しと悠然と立つ。

杵築大社(きづき=杵築神社)。慶安年中(1648〜1652)三代将軍家光の従兄弟で、 出雲の松江初代藩主松平出羽守直政の鷹狩場(下屋敷)で、 屋敷内に杵築神社(現出雲大社)と稲荷社両社を勧請して創建されて以来、 武蔵境の鎮守様として鎮座している。境内は広く、本殿のほか幣殿、拝殿、参集殿などが建ち並び、 規模の大きな富士塚がある。
東京都武蔵野市境南町2-10-11。

根元見れば無数の支枝。08.11.26. 大銀杏なのに主幹は見当たらない。08.11.26. 主幹無くとも上部は樹勢豊かな大イチョウ。08.11.26.
無数に伸びる「ひこばえ」 主幹は何処に ! 落雷で欠落したとか 上部は枝を四方に張るこの樹勢

杵築大社の千本イチョウは樹高25m,根元周囲約4.2m、枝葉およそ17m四方。 このイチョウは雌木で、主幹5本、支幹40数本よりなる。
現状から見て、何らかの原因 (落雷など)により地上部は枯死(約百五十年以上前)し、 その根際より生じた支幹 (ひこばえ)が成長して現在の主幹となったものと推定される。 多くの天然記念物は単幹老樹で、このような株立のイチョウはあまり類例をみません。
昭和四十七年市天然記念物指定 「武蔵野市教育委員会説明板」より。
 

万治2年(1659)の頃屋敷は引き払われましたが、 出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏がご用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け、 跡地は境本氏により開拓され境新田開発に努めたことにより「境」の地名が名付けられた。
松平氏ゆかりの神社のため神紋は三つ葉葵です。
  第一の鳥居から望めば大銀杏で社殿見えず。08.11.26. 角度変えて見れば大銀杏の表情も多彩。08.11.26.
境内を社殿を包み込む大銀杏 大銀杏を境内端から望むこの壮大さ


  ityou-8-.jpg(1207 byte)   鑓水 永泉寺

古木じゃないが周りを圧倒する黄葉。08.11.21.
山門の脇に凛として立つ鑓水永泉寺の美形の銀杏

角度変えても美形の銀杏。08.11.21. 永泉寺の均整取れた美形。08.11.21.   永泉寺の美形の銀杏は雌株。幹周り2Mです。 大木でも古木でもありませんが、緑豊かな里山のなか、ただ一本黄葉して自己主張です。
東京都八王子市鑓水80。
これぞイチョウの美形と自己主張 里山に一際目立つ黄葉のイチョウ

曹洞宗高雲山 永泉寺。
弘治元年(1555年)甲斐武田族 永野和泉(武田信玄の叔父にあたると伝えられる)が時の党族争い等の醜さから逃れて、 諸家臣とともに鑓水に移住し一宇を建てたことに始まる。 本堂は 現・絹の道資料館の敷地に建っていた、 鑓水商人の八木下要右衛門(やぎしたようえもん)の母屋を移築したものです。
 

鑓水商人と絹の道

安政6年(1859)横浜開港に伴い、 多摩の一寒村にすぎなかった鑓水の農民達いわゆる鑓水商人は、 仕入れた国内特産品の生糸を、 馬や荷車あるいは自らの肩にかついで八王子八日町から多摩丘陵を越えて横浜で売り渡し、 帰路は珍しい西洋の文物を持ち帰り、明治の文明開化の伝播に大きな役割を果たした。 生糸は八王子産はもちろん信州や甲州、 上州の糸も八王子へ集積されこの道(絹の道)を経由して横浜へ運ばれた。 この交易により鑓水には巨万の富を築いた豪商が誕生した。 しかしながら絹の道の繁栄は長くは続かず、明治政府による製糸工場や鉄道網、道路網の整備により、 わずか50年でその役割は急速に失われ、やがて歴史の彼方へ消え去った。 それとともに栄華を極めた鑓水商人達も相次いで没落した。
 

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