加藤 清正: 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名、肥後熊本藩初代藩主。
永禄5年(1562)尾張国の鍛冶屋・加藤清忠の子として、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)
に生まれる。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹
(あるいは遠縁の親戚)であったことから織田信長の武将として頭角を現し天正元年(1573)
近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576)に170石を与えられた。
清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられ豊臣秀吉の家臣として仕え、
各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。
智勇兼備の名将として知られているが築城の名手であり、熱心な日蓮宗の信徒でもあり日蓮宗の寺を数多く創設した。
秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。
「賤ヶ岳七本槍」の一人である。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。
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