渋沢栄一。
天保11年〜昭和6年(1840〜1931)武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれる。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。
18歳の時(1858)に結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。
また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。
幕末京都にて一橋慶喜の幕臣となり、
パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。
慶応4年(1868)に静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省。
明治6年(1873)に予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立して井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任、
東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、
帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、
多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
日本資本主義の父と呼ばれる実業家です。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。
「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通した。
他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっている。
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