歴史の浪漫街道 イチョウの名木達 黄葉のいちょう並木 田園調布駅西口の樹勢豊かな三本のイチョウ並木
古木名木達の歴史的遺産


イチョウの名木達 / 黄葉のイチョウ並木


  ityou-8-.jpg(1207 byte)   田園調布駅西口のイチョウ並木

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東急電鉄 (東京急行電鉄)田園調布駅西口の放射状南側のイチョウ並木

老木を感じさせない銀杏並木。09.11.26.   田園調布駅西口の三本のイチョウ並木。
西口駅前ロータリーから延びる北西に400M、西へ200M、南西400Mの 開発当時からの三本の放射状の銀杏並木と、四つの同心円で区切った街区に、 緑の多い瀟洒な家並みが連なっている。
大正12年の関東大震災直後(1923)から分譲をはじめた街で、 いちょう並木も同時の植林でしょうから、樹齢は約90年ですが、この銀杏の樹勢この瑞々しさに驚きます。
東京都大田区田園調布三丁目25 撮影:09.11.26.
樹勢豊かないちょう並木

大正建築様式の西洋館東急駅舎と噴水を抱えたロータリーを配した西口は、 大正10年開通の目黒蒲田電鉄の調布駅舎として開業。後に田園調布駅と名称変更となる。
現在は地下ホーム方式として地上には平成12年に旧駅舎が復元される。
  復元の田園調布駅舎。09.11.26. 東急HPの開業時の駅舎写真。
平成12年に復元された駅舎 大正10年の開業当時の駅舎

田園調布。
大正7年に渋沢栄一(田園都市梶jが閑静で住むのに便利な「田園都市」をと計画して造られた町です。 (当時は荏原郡調布村)関東大震災直後の大正12年から分譲始まる。
街の運営は自治会である「田園調布会」によって自らが運営し、 開発当初の理念を受け継いだ紳士協定である「田園調布憲章」のもとに街が守られ続けている。
駅前ロータリーはお洒落な店舗が数件あるも、 並木通りには元宅地跡地に銀行兼レストラン店舗と郵便局があるのみの、 秩序ある美しい町並みは今も維持されており「都市景観百選」の一つに選ばれている。
 

西中央の200Mの銀杏並木。09.11.26.   200Mの西側中央いちょう並木。
田園調布駅舎を望むいちょう並木です。
この200Mの銀杏並木は片側32本両側で合計64本の並木です。 駅西口からの三本の銀杏並木は全て樹勢豊かなイチョウ並木で居住者は毎年銀杏を愛でながら駅までを歩いたのでしょう。
中央の西口駅前銀杏並木

北側の400Mの銀杏並木。09.11.26. 南側の400Mの銀杏並木。09.11.26.
駅前から下がっていく北側いちょう並木 アップダウンある南側いちょう並木

町名は:渋沢栄一が計画し開発した田園都市の「田園」と旧村名の「調布」からとられた。 大正末期には目蒲線、東横線が開通した。  

渋沢栄一。
天保11年〜昭和6年(1840〜1931)武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれる。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。
18歳の時(1858)に結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。 また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。 幕末京都にて一橋慶喜の幕臣となり、 パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。 慶応4年(1868)に静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省。 明治6年(1873)に予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立して井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任、 東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、 帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、 多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。 日本資本主義の父と呼ばれる実業家です。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。 「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通した。 他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっている。
 

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