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古木名木達の歴史的遺産 |
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イチョウの名木達 |
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京・西本願寺 |
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京都市指定の天然記念物の西本願寺御影堂前の大銀杏 |
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本願寺は、浄土真宗本願寺派の総本山で東本願寺と対比の意味で西本願寺と呼ばれています。
浄土真宗の宗祖・親鸞の末娘の覚信尼(かくしんに)により文永9年(1272)京都大谷に造った「大谷廟堂」
が本願寺の起源とされています。
境内には唐門や飛雲閣、御影堂や阿弥陀堂(本堂)など国宝、重要文化財が数多くあります。
西本願寺全体が世界文化遺産(古都京都の文化財)の指定です。
京都市下京区堀川通花屋町下ル。 撮影:09.12.06. |
総門から黄葉包む御影堂門を望む |
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本願寺は以後石山本願寺など幾多の変遷を経ています。
文禄元年(1592)顕如上人は豊臣秀吉により現在の地が与えられ本願寺が再建され、
顕如から教如上人(顕如の長男)に引き継がれたが、
顕如から准如(顕如の次男)への本願寺譲り状があったため、
慶長7年(1602)に徳川家康により教如上人には烏丸七条に東本願寺(大谷派本願寺)の地が与えられ、
ここに本願寺が東西に分裂してしまい、
本願寺(西本願寺)は准如上人が正式に本願寺法主につく。 |
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横に大きく広がった独特な樹形 |
大修復完了の御影堂をバックに |
幹はどっしりとして貫禄十分 |
西本願寺御影堂(ごえいどう)前にある大銀杏。
幹りは 6.5m、樹高は 7.0m、西本願寺によれば、樹齢は約400年とのことです。
この大銀杏は横に大きく広がった樹形から「逆さ銀杏」とも呼ばれ、
京都市指定の天然記念物(昭和60年6月指定)です。
御影堂前の大イチョウは、江戸時代中期の「天明の大火」(1788)や「元治元年の大火」(1864)の際に火の粉を浴びながらも、
水を吹いて御影堂を守ったということから「水吹き銀杏」の別名が付けられています。
御影堂は寛永13年(1636)の建立なので、その頃にこの大銀杏が植えられたと思われる。 |
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阿弥陀堂前の大イチョウ。
幹周りは 4.0m、樹高は16.5m。
京都市の保存樹に(平成15年3月指定) に指定されている。
御影堂(左手前)と阿弥陀堂(中央奥)のその前にある大イチョウが、多くの参拝者を迎えている。
また国宝の唐門のすぐそばには龍谷大学(大宮学舎)の大イチョウもある。 |
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阿弥陀堂前の大イチョウ |
すくっと立つ大幹 |
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枝を横へ横へと扇状に伸ばす御影堂前の古木の大銀杏から見れば、
見栄え良い御影堂門脇のイチョウはまだまだなのです。 |
横へ広がった御影堂前の大銀杏 |
御影堂門脇のイチョウ |
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阿弥陀堂前の円形の見事な均整とれた樹形の大銀杏 |
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京・東本願寺 |
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掃き清められ玉砂利が敷かれた決して肥沃ではない境内で力強く生きるイチョウ |
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瓦葺き替え終えた御影堂 |
鐘楼の銀杏から京都タワーを望む |
東本願寺前烏丸通りの銀杏並木 |
真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称 真宗本廟)
慶長7年(1602)に、豊臣秀吉の命により退隠させられていた教如(顕如の長男)が、
徳川家康より烏丸六条に寺地を寄進され、この時本願寺が東西に分離。
御影堂は明治28年(1895)完成。世界最大の木造建築である。
正面の長さ=76m(42間) 側面の長さ=58m(32間) 高さ=38m(21間) 瓦数=175,967 枚
京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754番地 |
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大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力が織田信長にとっては障害となり、
約10年にわたる石山合戦(一向一揆)が始まり、合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦する教団と、
信長との講和を支持する勢力(穏健派)とに分裂していく。
この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。顕如は強硬な教如を退け、准如に本願寺を譲る。
徳川家康は協力的な教如を再度法主にしようとしたが、重臣の本多正信による「本願寺の対立はこのままにしておき、
徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、
慶長7年(1602)、准如を西本願寺法主のままとし、
教如を東本願寺法主にと本願寺を分立させて、本願寺勢力の弱体化を図ったのです。 |
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