蝦夷地小樽の歴史は
○安土桃山 (1596)文献上記載された最初の和人がオタルナイに入植する。
オタルナイ川の河口に、松前藩の八木勘右衛門が漁場を開き、和人として初めて漁業を始めた。
これを「オタルナイ場所」(=松前藩知行地)と名付けたのがオタル(小樽)の起源である。
○元禄三年 (1690)オタルナイ場所に小樽稲荷神社とタカシマ場所に高島稲荷神社が創祀される。
○安永年間 (1770)には、ニシン漁は松前、江差方面からオタルナイ、タカシマへと移っていった。
追うように松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになった。
同時期に蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれ、
弁財船(北前船=和船で500〜1000石の積載量)が塩、紙、砂糖、米、酒、わら製品(縄・ムシロ)
を運びニシンや海産物を持ち帰った。
○慶応元年 (1865)幕府はオタルナイを村並とする。人口は、1,143人と記録されている。
○小樽となったのは明治二年に開拓使が開設されてからであり、同時に蝦夷地が北海道と改称。
○明治20年の北前船の五大船主は敦賀の右近家、加賀の広海家・大家家・浜中家、
越中の馬場家で、運賃収入でなく商品を買って運びそして売る買積み船で富を築き、蒸気船をも持つ船主も現れた。
○以降昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町は北の商都としての繁栄が続いた。 |
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