歴史の 浪漫街道  蔵のある町並み 蔵街道。 北の商都の歴史変遷を今に伝える近代化建築への小樽浪漫。
町家建築の歴史的遺産


蔵のある町並み ・ 蔵街道


    北の商都 小樽の大正昭和浪漫

旧日本銀行小樽支店。'10.06.17.
左右対称の重厚な石造り風建築に見える赤煉瓦建築 (現日本銀行金融資料館)

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧日本銀行小樽支店。明治45年(1912) 煉瓦造。

塔屋の5個の銅葺きのドーム。'10.06.17. 建物守る壁面のシマフクロウ。'10.06.17.   明治26年小樽派出所開設、支店昇格は明治39年で、大阪・北九州・名古屋に続き4つ目の支店となる。
設計者は日本銀行本店や赤煉瓦の東京駅舎を設計した辰野金五で、 塔屋ドームの曲線と重厚な外観が調和してひときわ荘重な姿を誇っており、 小樽を代表する建造物である。
小樽運河への坂道に建つ 塔屋のドームや統一窓の曲線

外観にはルネッサンス様式を取り入れ、屋根には5つのドームを配し、 外壁は煉瓦造りの表面にモルタルを塗り石造り風に仕上げています。 建物の構造は、レンガ造りの建築技術に、鉄骨やコンクリートなど次代の主役となる技術を取り入れている。  色内1-11-16。  

重厚感あふれる塔屋ドーム。'10.06.17. 塑像シマフクロウ。'10.06.17. 大理石の営業カウンター。'10.06.17. 二階を周回する回廊。'10.06.17.
五つの銅板張の塔屋 守神シマフクロウ 大理石の営業カウンター 吹き抜け二階に回廊が巡る

営業場カウンターにはサラサ模様の岐阜県赤坂産大理石を使用、 営業フロアの床から天井までの高さは約10.5m。 屋根はレンガの壁から鉄骨を組んで支える構造となっており、柱のない大きな吹き抜けの空間で アイヌの守神シマフクロウをモチーフにした壁飾りが内壁に12体、外壁に18体あります。 職員がいない夜、フクロウが支店を見張っていたとか。  

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧北海道銀行本店。明治45年(1912) 石造。

現在の北海道銀行とは無関係であり、前身は明治27年(1894)に設立された余市銀行です。 この本店の設計は通りをはさんで建つ日本銀行旧小樽支店の設計に携わった長野宇平治で、 請け負ったのは地元の加藤忠吾五郎。銀行建築独特の重厚さをもち、 玄関や窓まわりの石組みデザイン、コーナー部分や窓の間隔の変化などに特徴がある。 外観の正面はほぼ創建時の姿です。 色内1-8-6。   正面壁面の石組が独特。'10.06.17.
石組枠の連続アーチの窓は重厚

余市銀行。 明治27年(1894)漁業資金により山林原野の開墾を目的に設立。 明治30年には小樽に本店が移されて小樽銀行と改称、 明治39年には北海道商業銀行と合併し北海道銀行となり (現在の北海道銀行とは別の銀行)、同行は道内で筆頭の普通銀行となる。 昭和19年(1944)に北海道銀行は拓銀に合併されました。 (明治33年北海道開発を目的とした北海道拓殖銀行が設立。) 平成9年(1997)、拓銀が経営破綻して長い歴史に幕を閉じる。  

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧塚本商店(後藤商店)大正9年(1920) 木骨鉄鋼コンクリート造。

防火構造の頑丈な造り。'10.06.17. 閉鎖されたままの店舗。'10.06.17.   旧塚本商店(後藤商店) 近江出身の呉服太物商の店舗として建てられたが、明治37年(1904)の稲穂町大火以降、 教訓として防火構造の建物が普及。 この建物も外壁をコンクリートで塗り固め、出入り口や窓を防火戸で覆う工夫が施されている。
色内1-6-27。
殿と構えた店舗 勿体ない使わなければ痛み進む

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧三井銀行小樽支店。昭和2年(1927) 鉄骨鉄筋コンクリート造。

正面の外壁に石積みの5つのアーチを連ね、軒に彫刻を施したルネッサンス様式の建物。 石は岡山県北木島産の花崗岩、内部は吹き抜けに回廊が巡り、天井に石膏彫刻の模様が飾られている。 設計は曽根中條事務所。平成14年に支店統合により営業を終える。 色内1-3-10。   重厚なルネッサンス様式。'10.06.17. 五つの連続アーチ。'10.06.17.
重厚なルネッサンス様式の建物 外壁には五つのアーチ連なる

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧安田銀行小樽支店。昭和5年(1930) 鉄筋コンクリート造。

ギリシャ神殿風建築。'10.06.17. 重量感ある四本の円柱。'10.06.17. 道路側面も正面造り。'10.06.17.
坂道に建つ旧安田銀行 重量感ある四本の円柱 角地立地ゆえ運河に面した正面

旧安田銀行小樽支店。 ギリシャの建築様式をもった昭和初期の典型的な銀行建築で、 重量感あふれる四本の円柱が特徴。 なお建物は交差点の角に建ち、右手側は小樽運河側に面しており正面と同じ構造である。 道路拡幅に伴い平成13年(2001)後方に曳家(ひきや=建物を原型のまま移動)された。 色内2-11-1。  

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧越中屋ホテル。昭和6年(1931) 鉄筋コンクリート造。

昭和の変遷背負った越中屋ホテル。'10.06.17.   越中屋は明治30年代以降の英国の旅行案内書にものった旅館です。この建物は外国人客専用のための別館で、 国際貿易港小樽を象徴する建物の一つです。
正面から見る姿は、中央にある縦2列のベイウインドウや両脇の丸窓と垂直の窓割りなどが特徴です。 また内部にちりばめられているステンドグラスに第一次大戦後のアール・デコ様式の影響がみられるとか。
設計は倉沢国治。色内1-8-25。
昭和の歴史とともに変遷

数奇な運命の越中屋ホテル。  戦争中の昭和17年には日本陸軍の将校クラブとして接収された。終戦時に今度は米軍に接収され、 昭和25年に越中屋旅館に返還された。昭和30年には北海製菓の独身寮に。 アドバンテスト社がゲストハウスに、平成5年からは小樽グランドホテルクラシックに。 平成21年2月に閉館。  

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   小樽商工会議所。昭和8年(1933) 鉄筋コンクリート造。

小樽商業会議所は明治28年に設立、日露戦争後小樽は益々発展した。
昭和3年に商工会議所と改め、昭和8年に3階建て地下1階の現在の建物が建てられた。 内部は小樽全盛期の雰囲気が偲ばれる会議室、ステンドグラスの看板、 窓の周囲に飾りの彫刻が施されている。 色内1-6-32。
  小樽商人たちの栄枯盛衰。'10.06.17. 飾り彫刻が往時を偲ばせる。'10.06.17.
閉館されたまま 壁面に細かな飾り彫刻

  アイヌの建物の守り神シマフクロウ。   旧三井物産小樽支店 (松田ビル) 昭和12年(1937) 鉄筋コンクリート造。

現代に通用する近代的なオフィスビル。'10.06.17. 黒御影石の玄関壁。'10.06.17.   地下1階地上5階の事務所ビルは戦前の代表作。 装飾を排除した真四角の単純明快な合理的なデザイン。 黒御影石の貼られた玄関や1階の壁は、 2階以上の白色タイル壁と鮮やかなコントラストを見せ、新鮮な印象を与え、 玄関ホールは琉球産大理石で内装されています。色内1-9-1。
黒と白の大胆なコントラスト 黒御影石の貼られた玄関


北の商都小樽はニシン漁と北前船(千石船・弁財船)西回り航路が基礎を築いた
ニシン漁場和船資料より。 ニシン漁場和船資料より。
蝦夷へ一年一航海で稼ぐ全長30mの北前船 安政5年(1858)700石の北前船

蝦夷地小樽の歴史は
○安土桃山 (1596)文献上記載された最初の和人がオタルナイに入植する。
オタルナイ川の河口に、松前藩の八木勘右衛門が漁場を開き、和人として初めて漁業を始めた。
これを「オタルナイ場所」(=松前藩知行地)と名付けたのがオタル(小樽)の起源である。
○元禄三年 (1690)オタルナイ場所に小樽稲荷神社とタカシマ場所に高島稲荷神社が創祀される。
○安永年間 (1770)には、ニシン漁は松前、江差方面からオタルナイ、タカシマへと移っていった。 追うように松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになった。
同時期に蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれ、 弁財船(北前船=和船で500〜1000石の積載量)が塩、紙、砂糖、米、酒、わら製品(縄・ムシロ) を運びニシンや海産物を持ち帰った。
○慶応元年 (1865)幕府はオタルナイを村並とする。人口は、1,143人と記録されている。
○小樽となったのは明治二年に開拓使が開設されてからであり、同時に蝦夷地が北海道と改称。
○明治20年の北前船の五大船主は敦賀の右近家、加賀の広海家・大家家・浜中家、 越中の馬場家で、運賃収入でなく商品を買って運びそして売る買積み船で富を築き、蒸気船をも持つ船主も現れた。
○以降昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町は北の商都としての繁栄が続いた。
 


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