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魅惑の歴史紀行 ハイキング |
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浪漫街道を行く ハイキングサークル |
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第5回浪漫街道 高尾山 下見ハイク 08.03.11. |
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高尾山: 東京都八王子市に属し、関東山地の東南に位置している。
都心からの50キロと交通の便にも恵まれ、日帰りでもゆっくりと山歩きが楽しめる国定公園で、
平成19年に富士山と並んでミシュランの三ツ星に指定された素晴らしい山です。
天狗の伝説が数多いのは古くから山岳信仰の霊場として栄えたためであり、
また高尾山は標高599Mですが暖帯と温帯林の境目であり動植物の宝庫として知られています。
ハイク行程: 旧甲州街道日影〜日影沢〜いろはの森〜大見晴台〜薬王寺〜稲荷山〜高尾山口駅の約13キロ。
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旧甲州街道は高尾小名路から分岐して高尾山の北側を通り12番宿場の駒木野を過ぎれば、
蛇滝口からの登山道、日影からの登山道、そして13番宿場の小仏を過ぎて小仏峠を越して、
相模湖の14番宿場の小野で現甲州街道と合流する。 |
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高尾駅からバス15分で大自然の世界へ |
高尾山日影沢の自生のハナネコノメソウ |
メンバー竹島さんのハナネコノメソウ写真 |
バス停の日影から日影沢つたいに園地に向かい、
その分岐点から稜線の急勾配のいろはの森を這い登るようにして高尾山の頂上を目指します。
歩数進めば会話も途切れがちとなっています。
そのはずです。高尾山登山道では一番の難所のコースなのです。
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日影沢沿いのなだらかなコースも |
園地からは急勾配の稜線を一時間後山頂に |
高尾山頂は、昔から「十三州大見晴台」とも呼ばれ、
武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・下野・上野・甲斐・駿河・伊豆・信濃・
越後の13国が見られるといわれている。
現在でも狭山の西武ドーム、新宿副都心、六本木ヒルズ、レインボーブリッジ、
横浜ランドマーク、富士山が見晴らせるのです。 |
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高尾山薬王院有喜寺 |
朱色の中で極彩色で欄間を飾る |
薬王院奉納の烏天狗 |
薬王院奉納の大天狗 |
薬王院: 真言宗智山派の大本山で、正式名称は「高尾山薬王院有喜寺」(たかおさん やくおういん ゆうきじ)
この寺の草創は奈良時代の天平16年(744)行基菩薩が聖武天皇の勅命を得て、
薬師如来を安置して開山されたと伝えられている。
薬王院飯縄権現堂前には、右側に鼻の高い大天狗、
そして左側には烏の嘴を持った烏天狗の小天狗の像が立っています。 |
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天狗には諸説ありますが、そのひとつに、日本書記のなかのサルタヒコ神という説があります。
サルタヒコ神は、一般に道の神・道祖神と考えられています。
一説には、仏教上に現れる嘴を持ち、翼によって自由自在に空を飛びまわり、
衆生の救済を行う「カルラ天」が日本の風土に合った形に変形され天狗として語り継がれたという説もあります。
高尾山でも、天狗は御本尊の飯縄大権現の随身として、招福万来、
除災開運や衆生救済のご利益をもたらす重要な役割を持って語り継がれており,
濃の天狗が格が一番上の太郎坊、高尾の天狗は末弟子の十郎坊(カラス天狗)とされているとか。 |
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大見晴台から沢を木橋で渡り下山 |
稲荷山コースは杉が根を張る登山道 |
高尾山口駅へはなだらかな杉林を抜ける |
薬王院を拝観して高尾山を下山です。
大木が登山道を覆うように根を張る稲荷山コースです。あずま屋の展望台から都心を望み一服。
此処からはなだらかな杉林を通り高尾山口駅前までゆったりハイクです。
9時15分集合で帰着は16時。全行程 23,300歩。約14キロでした。 |
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第4回浪漫街道 玉川上水緑道 08.01.16. |
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玉川上水開墾の玉川兄弟像 |
玉川上水緑道のハイキング全行程の案内図 |
玉川上水: 江戸の人口が増えて井戸や小川だけでは飲料水を賄えなくなったため、
江戸幕府は多摩川の水を江戸に引くことを計画し、
承応2年(1653)に玉川庄右衛門、清右衛門の二人の兄弟が完成させたといわれており、
以後玉川上水と呼ばれるようになった。
上水は取水口である多摩川の羽村から四谷大木戸までの43kmに及ぶものですが、
この間の落差が100mと小さく勾配が緩やかなため、水を流すのに苦心したと伝えられている。
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玉川上水緑道のハイキング第二弾は鷹の台から吉祥寺の井の頭恩賜公園までの12キロ。
鷹の橋から万助橋までの上水の面影を求めての散策です。
一月にしては吹きすさぶ北風もなく穏やかな日和です。
鷹の台からのスタートは小平監視所から分水された新堀用水が小平桜橋まで併走する緑道を通ります。
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玉川上水を渡る西武線 |
新堀用水と玉川上水に挟まれた緑道 |
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鷹の台: 尾張徳川家の鷹場であったことから鷹の台や三鷹の地名となる。 |
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玉川上水の緑はぐくむ自然林は先人達の辛苦の賜物、自然の恵みなのです。 |
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ヤマザクラの古木が大枝を張る |
青々しくも鬱蒼とした保存竹林 |
掘削壁に根を貼り付ける巨木 |
美しい印象で目に飛び込んできた竹林は、小平市が保存竹林として認定した保存竹林。
保存竹林は竹の高さが10メートル程度以上の集団で、面積が330平方メートル以上の竹林です。
緑道には保存樹林、保存木、保存竹林が多く見られ、
緑と環境の保全に尽くす小平市の姿勢を感じます。 |
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小金井橋は昭和5年の煉瓦張りアーチ橋の改修工事中。
玉川上水沿いの小金井桜(ヤマザクラ)の桜並木は寛文9年(1797)に武蔵八景として「金橋(きんきょう)の桜花」
が選ばれて一躍有名になった歴史ある桜並木です。
名勝天然記念物として小金井櫻の石碑が大正13年に建立されていたが、現在は橋の改修工事で撤去されている。
この桜並木沿いの臨済宗海岸寺には金橋桜花を記載した小平市の有形文化財の小金井桜樹碑がある。 |
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小金井櫻の石碑 |
石碑に替わり天保9年の歌川広重作を掲げる |
金橋の桜花。江戸時代の漢学者大久保狭南の選文で700字に及ぶもので、狭南は寛文9年に武蔵野新田
世話役川崎平右衛門正孝の植樹の功績(武蔵野・小平市間の玉川上水両岸6キロ)と、
狭南が選んだ武蔵八景の1つである小金井堤の「金橋の桜花」はこの地であると
述べた漢文を後世に伝えようと小金井桜樹碑(こがねいおうじゅひ)が文化7年(1810)に建立された。 |
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お楽しみの昼食場所の都立小金井公園まではあと少し、玉川上水に架かる橋の上での記念写真です。
公園内には今が満開の若木のソシンロウバイが葉を落としきった武蔵野の面影の雑木林の中で
上品な香りで華やかに咲き誇っている。 |
都立小金井公園: 昭和15年の紀元2600年記念事業で計画された小金井大緑地。
戦後、東宮仮御所に使用され、また農地解放により4割を失いましたが、
昭和29年に都市公園として開園されたのです。
園内の山桜、染井吉野、里桜は昭和20年代末期より順次植えられたもので、今ではお花見の名所。
江戸東京たてもの園が併設されている。
面積78ヘクタール(日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍)の広大な公園です。
隣接する玉川上水の堤の並木はヤマザクラが中心で、当初は将軍吉宗の時代に植えられました。
大正13年に「名勝」の指定を受けています。 |
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山本有三記念館はこの日休館日にて洋風建築の南側や庭園、記念公園を見ることできず残念。
門前の路傍の石は「路傍の石」執筆当時の昭和12年に中野旧陸軍電信隊付近の道端にあったものを
見つけ有三が裏庭に運び込んだ石です。
三鷹市下連雀2-12-27。 |
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記念館門前の路傍の石 |
山本有三記念館の北側外観 |
三鷹市山本有三記念館。
「路傍の石」「米・百俵」などの小説や戯曲で知られる作家山本有三(明治20〜昭和49)は、
作家としての仕事以外にも、戦後、邸内に三鷹国語研究所を開設し、日本国憲法の口語化を政府に進言したり、
国会議員として各種法案の制定にも関わる。
昭和11年から21年まで住んでいた大正時代の自由な雰囲気が感じられる洋風建築(大正15年建築)
の魅力ある住居を三鷹市が譲り受け記念館として公開。
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玉川上水は暗渠で中央線三鷹駅舎を潜り抜けて、
吉祥寺通りの万助橋から浅間橋まで続き上水は浅間橋から暗渠となる。
三鷹からは整備された欅並木の「風の散歩道」があり、閑静な住宅地のハイクコースです。
今回のゴールは吉祥寺通りに架かる万助橋ですが、
上水の幅は極端に狭いが緑に包まれて流れ続けていました。
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三鷹から万助橋まで続く風の散歩道 |
万助橋からの玉川上水 |
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欲張ってもう少し歩こうと玉川上水を井の頭公園内のほたる橋まで足を延ばし、
ここで玉川上水と別れて井の頭恩賜公園内を散策です。
井の頭池では弁才天の鮮やかな朱色の社殿が影を湖面に映して佇んでいました。
ハイク総行程は9時集合 15時帰着で 総行程15.0キロ 24,300歩でした。 |
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井の頭池: 善福寺池などと同様に武蔵野段丘の勾配が付近で緩くなり、
砂礫層をつたわって地下水が湧き出し形成された。
湧き水が7カ所あったが、
都市化の影響などで湧き水が減り始め池の北側にある湧き水の「御茶ノ水」が唯一残った
(残念ながらこれも現在はくみ上げ式井戸水です) |
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