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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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田端八幡神社 平成25年08月 (6年毎) |
神輿データ: 祭神: 品陀別命 台座:三尺二寸(96) 建造年度:昭和3年 製作者:池之端・宮松
特記: 鳥居網被せ 龍頭の四段桝組の錺神輿 町会渡しで渡御 境内参道脇に町会神輿庫 |
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祭礼隊が強い日差しを受けながら木遣唄に先導されて田端新町一丁目が路地中を熱気の担ぎ |
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平成4年建造の田端八幡神社 |
田端地区POP |
田端新町1丁目 |
田端新町2丁目 |
親交会のPOP |
田端八幡神社大祭。 '13.0818.(日曜) 宮出し7時半(氏子総代連合)
(東田端・新町町会渡し) 9時〜12時 転送担ぎ(氏子総代連合)12:30〜
(田端町会渡し) 13:00〜18:30 宮入18:30〜(氏子総代連合)。
田端8町会東田端新町6町会の全14町会。 北区田端2丁目7番2号。 |
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田端八幡神社は文治五年(1190)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、
その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、郷土の鎮守とした神社である。
別当寺である東覚寺の石造金剛力士立像(赤紙仁王)は、
赤紙を買って仁王の自分の患部と同じ場所に貼ると病が完治する言い伝えられて全身赤紙で覆われた仁王です。
近くには上田端の鎮守の上田端八幡神社(例大祭8月)がある。 |
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参道脇東覚寺の赤紙仁王 |
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東田端へ引渡しのため田端駅前通りの坂下から深い切り通しを田端駅目指してじわりと登ってくる |
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祭礼隊列が炎天下の田端駅前高架橋を渡る |
宮神輿が高架橋から東田端地区へと入り込む |
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引き受けた田端新町三丁目が炎天下の明治通りを雄叫び挙げて気迫の担ぎ |
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田端八幡独特の祭礼飾り |
田端新町三丁目が明治通りの二丁目への町会渡し場へと南下していく |
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田端新町二丁目から引受けた親交会が路地中渡御 |
木遣が響く猛暑のなか田端新町一丁目親交会の担ぎ |
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町会渡しの睦会へと尾久橋通り交差点横断で信号待ちの足踏み続ける田端新町一丁目親交会の担ぎ |
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お囃子連・神官・先導総代・社旗・稚児行列・高張提灯・木遣が続く祭礼行列だが、
引き渡し引受けの両町会長の挨拶、若頭の一本締めで町会渡しを繰り返して渡御をしていく。
お神酒所以外に祭り提灯が無く独特の行灯型祭礼飾り、御幣は細く、神輿責任者(拍子木)は若者頭、
渡御責任者は宰領長、副宰領長と称している。
担ぎ手達はソイヤ!・ソイヤ!の掛け声です。 |
独特の行燈型飾り |
赤黒のコントラスト |
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祭礼隊は駅前高架橋の東田端から田端地区へ |
東田端坂下から坂上の田端駅前を渡御 |
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田端駅前から坂下の田端地区町会渡しの引渡し場までは連合で暑さに負けぬ威勢良い担ぎ |
田端八幡神社の参道の中ほど、一の鳥居の手前には明治時代の石橋の欄干が埋められている。
これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、
記念保存のためここへ移されました。
なお谷田川は北区西ヶ原の駒込の染井霊園から上野の不忍池に注いでいた川であった。 |
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田端の由来: 田の端に本村・(中心となる集落)があったことによる。
崖を境に崖上を「上田端」崖下を「下田端」に分けた。上田端は谷田川(やたがわ)下田端は音無川が流れ、
町は崖上が古く崖下が新しい。「田端駅」ができたのは明治29年。
東田端は東北本線と京浜東北線の間の中小の町工場の混在する住宅地であるが、
町の大半を昭和32年に開業した田端操車場が占める。 |
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