歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 世田谷野沢の鎮守の森の野澤稲荷神社は背高神輿を氏子衆が喜び担ぐ
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    野澤稲荷神社  平成21年8月 (毎年)

神輿データ:祭神: 倉稲魂命 台座:二尺八寸(86) 建造年度:昭和2年 製作者:行徳・後藤直光
  特記: 台座寸法より大きくみえる 延軒屋根・勾欄造り 鳥居、胴、台座の木彫が見事です。
 

坂道の臨済宗龍雲寺白塀沿いを担ぐ。09.08.23.
担ぐ喜びを全身で表わす躍動感溢れる野沢稲荷神社の氏子衆

簡素なかわら版。09.08.23. 神社隅の庚申塔祠。09.08.23. 夜店が占拠する境内と神社社殿。09.08.23.   野沢稲荷祭礼
09.08.23.(日曜)
 12時〜18:15
世田谷区野沢2-
    2-13。
野沢稲荷POP 世田谷野沢の鎮守の森と庚申塔 野沢稲荷神社社殿

創建の由緒は不明であるが、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には野沢村の鎮守であると記されている。 境内の北端に庚申塔があり塔には「元禄八年 野沢村」と記されて、塔は小さな堂に大切に納められている。 この元禄八年(1695)という年号は、野沢村の成立を知る上で貴重な資料だそうだ。
この野沢村の名は、この地を開拓した葛飾領東葛西の野村治郎右衛門と六郷領の沢田七右衛門の二人の名から採ったとか。
 

渡御へ差し上げで御挨拶。09.08.23. 境内で神輿一回転させる神輿揉み。09.08.23. 狭く低い鳥居を潜る神輿。09.08.23.
差し上げで渡御の御挨拶 狭い境内で神輿揉み 神輿棒抱きかかえ鳥居を潜る

野澤稲荷神社の例大祭の祭典中、神職が「オー」という声を発する。 これは神様がお出ましになる「降神の儀」などの次第のときに行います。これを警蹕(けいひつ)」と言います。 「警」には警戒するという意味があり、「蹕」には行く人を止めるという意味があります。 つまりこれは天皇のお出ましや貴人の通行の際、人々が不敬の行為をしないようにと先払いが声をかけて注意をし、 警戒するというのが本来の意味であり、このことが神事に於いても取り上げられるようになり、 警蹕の間は神職や参列者が頭を下げて敬礼するようになりました。

野沢稲荷神社の宮出しは、 神輿の背が高くて担ぎのままでは通れない。神輿を抱きかかえるように下げて鳥居を何とかくぐり抜ける。
 

神社前路地から氏子区域へ渡御。09.08.23. 同行者が担ぎ手を鼓舞する。09.08.23. 龍雲寺山門。09.08.23.
細い鳥居前道路から渡御です あえぐ坂道を拍手で鼓舞する 休息の大澤山龍雲寺山門へ

臨済宗妙心寺派龍雲寺は元禄十二年(1699年)、盤珪禅で有名な節外大和尚が麻布の光林寺から隠居するために現在の龍雲寺墓地付近 (現在の旭小学校敷地内)に寺領三十町歩を有する大澤山龍雲寺を建立したのに始まる。  

鳥居、胴、台座の木彫が見事な野沢稲荷神社の宮神輿です。
昭和 2年建造の製作者は行徳・後藤直光です。
  生きている様な鳥居を抱く龍。09.08.23. 胴柱包む彫刻。09.08.23.
正面の鳥居 側面の鳥居と胴柱

地名の由来: 下馬引沢村の秣場(まぐさば=牧草地)だったが、葛飾郡東葛西領の野村次郎左衛門と 荏原郡六郷領の沢田七郎右衛門が開発し、正保以後に村を起立したようだ。 村名は開発者野村の「野」と沢田の「沢」をあわせて「野沢」。 余所者が拵えた村だというので品川用水の利水が認められず畑地ばかりだった。 幕末まで天領で、明治29年以後は「三連水車」で名を馳せた。

ちょっと判りずらい野沢稲荷神社です。 渋谷駅より東急バス野沢龍雲寺循環バス利用が一番わかりやすい。バス停野沢龍雲寺下車3分です。



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