歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 記念すべき鎮座1900年祭の五條天神社の千貫神輿が終日雨の中の渡御
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    五條天神社 鎮座1900年祭 平成22年5月 (大祭は3年毎)

神輿データ:祭神:大己貴命 台座:三尺八寸(115) 建造年度:昭和5年 製作者:行徳・後藤直光
   特記: 黒漆塗りに大きい鳳凰 延軒屋根・四方桟唐戸・勾欄造りの格調高い神輿です 。
 

上野公園中央口から氏子区域へと渡御。'10.05.23.
雨煙る中を上野公園前交差点から氏子区域へと元黒町会が担ぎ渡御です

かわら版は毎回同じ図柄。'10.05.23. 静寂そのもので大祭宵宮の雰囲気がない。'10.05.23. 新装神輿庫前で鳶頭が宮神輿の整備。'10.05.23.   五條天神社
 鎮座1900年祭
 大祭一年繰上げ
'10.05.23.(日曜)
宮出12時〜20時
台東区上野公園
      4-17。
毎回同じPOP 宵宮なのに祭り雰囲気ない 鳶頭が宵宮に宮神輿の整備

第十二代景行天皇の時代(1900年前)、日本武尊が薬祖神(大国主命と少彦名命の二柱) の大神に御加護を頂いた事に感謝して、この地に両神を祀る。 茨城の大洗磯崎神社、大阪の少彦名神社とともに三薬祖神の一つとして敬われる。  

神事終え鳥居下まで担ぎ出す。'10.05.23. 年番氏子会が中央口まで宮出し。'10.05.23. 公園桜並木の傘の海を掻き分けて宮出し。'10.05.23.
木遣連による鳥居下まで担ぎ出し 年番氏子会が中央口まで宮出し 桜並木押上げ傘を掻き分け前進

雨の中を社旗と木遣連が先導で千貫神輿の宮神輿とお祓い鳳連などが祭列整えて、 出店が全くない上野公園内を中央通りの公園入り口へと進む。
ここから氏子区域の上野広小路一帯(上野2丁目、1丁目、3丁目)を渡御です。
3年毎の大祭は本来平成23年であるが、 繰り上げて「鎮座1900年祭」を実施のために、次回の大祭は4年後の平成26年となる。
 

公園中央口で拍子木打たれ渡御。'10.05.23. 上野公園中央口を南下。'10.05.23.
公園中央口交差点を横断 氏子区域渡御のために不忍通り交差点へ

雨吹き飛ばすほどの熱気。'10.05.23. 不忍通りを元黒門町会が担ぐ。'10.05.23.
止まぬ雨を吹き飛ばし不忍通りを渡御 不忍通りを元黒門町会が威勢よく担ぐ

御創祀以来1900年という記念すべき年。 奉祝事業として新たに予算3千万円にて神輿庫を造り、表参道敷石と階段改修の境内整備予算3千万にて実施した。
社殿前に張り出された高額協賛芳名には元黒門町、上野町、黒門町、池の端仲町、東黒門町、南大門町、 三橋・五條町と各町会がずらりと並ぶ。

不忍池(しのばずのいけ)由来:
上野恩賜公園(東京都台東区)の中に位置する天然の池で、 不忍池の弁天島に建つ石碑によるとかつて上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼んで、 上野公園一帯の古称。〈しのぶのおか〉〈しのびのおか〉とも。 この地名にちなんで「不忍池」となったらしい。 なお不忍池の西側の池之端2丁目には明治8年開校の忍岡小学校がある。
上野の由来:
江戸初期に外様大名の藤堂高虎の屋敷が置かれ、当地の地形が本拠地である伊賀上野に似ている点から 「上野」と命名したという説と、 平安時代に小野篁が上野国(こうずけのくに。群馬県)での任を終えて京へ帰る途中、当地に館を建て滞在し、 その際地元の人が篁(たかむら)のことを呼んだ 「上野殿」が地名になったという説とがある。
 


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