歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 氏子区域は坂道多く真夏の渡御である上田端八幡神社は夕刻からの宮出し
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    上田端八幡神社 平成22年 8月  (隔年)

神輿データ: 祭神: 品陀別命 台座:二尺五寸(75) 建造年度:大正時代 製作者:不明
       特記: 唐破風軒屋根・勾欄造り 上野大正博覧会の展示神輿を購入する
 

神社横の八幡坂を登る宮神輿。'10.08.08.
神社横の八幡坂を神職や氏子役員に導かれて登り始めた上田端八幡神社の宮神輿

樹木生い茂る境内。'10.08.08. 高台の拝殿。'10.08.08. 隣接する別当の大龍寺。'10.08.08.
大幟が立ち樹木に覆われた境内 石段の上で静かに佇む拝殿 隣接する別当の和光山大龍寺

上田端八幡例大祭 '10.08.08.(日曜) 宮出し 16時〜宮入19時半
例大祭猛暑の8月ゆえ、坂道多く暑さ避けての16時からの渡御時間でしょうか。
でも氏子区域に張りだされた氏子総代会のかわら版では19時半宮入、社務所に掲げられた渡御路表では宮入20時、 チョット混乱しますね。 隣接する別当寺は正岡子規などの墓があることで知られる和光山大龍寺。   北区田端4-18-1。
 

江戸時代の田端は田端村と呼ばれ、上田端と下田端にわかれていた。 この八幡神社は上田端の村人の鎮守です。 文治五年(1189)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定(奥州征伐)し その帰路に駐留した証として、鎌倉八幡宮を勧請し、郷土の鎮守とした。 この由緒は下田端鎮守の田端八幡神社と同じであり、 元は一つの神社だったものが分かれたのではないかとも考えられる。  

高台に佇む本殿。'10.08.08. 拝殿に入る神職。'10.08.08.   参道脇の社務所から石段を登った鳥居を潜り、 神職二人のみで15時30分神事のため拝殿に入り込む。 氏子総代や役員も参加しない独特の神事なのです。
鬱蒼とした高台に佇む本殿 神事のため拝殿に入る神職

参道での祝詞奏上。'10.08.08. 渡御列整え木が入るのを待つ。'10.08.08. 西台自治会による担出し。'10.08.08.
宮司による祝詞奏上 神事終え渡御列を整える 田端西台自治会による担出し

16時宮出し19時半宮入。西台自治会の担ぎです。
神社神輿は台座2尺5寸(75)大正時代に作られ作者は不明ですが、古式の神輿です。 唐破風軒屋根・勾欄造りで上野大正博覧会の展示品を購入したもの。
 

鳥居大幟潜り宮出し。'10.08.08. 鳥居前通りから渡御。'10.08.08. 八幡坂登りへ方向転換。'10.08.08.
鳥居大幟潜り氏子区域へ 威勢よく渡御開始 八幡坂登りに体勢整える

お囃子が渡御列を先導。'10.08.08. 渡御列が八幡坂を登りだす。'10.08.08.
お囃子屋台が祭り囃子奏で八幡坂を登り始める 高張り提灯と鉄棒そして神職と氏子役員が先導

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宮神輿が鳥居からゆったりと渡御してきたが早くも広い道路のお祭り会場の提灯が灯りだす

田端は坂の多い地区であり、江戸坂、不動坂、与楽寺坂、幽霊坂、東覚寺坂、八幡坂等がある。 上田端八幡神社の脇が八幡坂である。  

田端の地名:  江戸時代に田端村としてできた。 田圃の端(はじ)に拓いた村であることから、田端と名づけられたといわれる。 田端は崖上と崖下に亘り、崖上を田端とし、崖下を東田端に分けた。 現在の田端駅はかつての田端村の崖地だったところにあり、 崖下をJR山手線・京浜東北線が通る。  

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