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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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皆中稲荷神社 平成28年9月(5年毎) |
神輿データ: 祭神: 宇賀之魂大神 台座:二尺(61) 建造年度: 昭和56年 製作者:浅草・宮本重義
特記: 唐破風の軒面強調の白龍を浮かせた吹き返し 勾欄造り 白丁烏帽子で担ぐ 奇数年には鉄炮組百人隊 |
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新宿百人町の大久保通りへの細い路地へ人力車に乗った宮司と白丁烏帽子が宮出しです |
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'16.09.25.(日曜) 白丁渡御 10時〜13時半 鉄炮組百人隊は奇数年に行なわれる。
皆中稲荷神社の名前の由来は、江戸時代に鉄砲組与力が稲荷神社にお参りをして射撃を試みたところ、百発百中「皆中(みなあたる)の稲荷」と称され、
みなあたる、よくあたる神様として親しまれた。 東京都新宿区百人町1-11-16 |
神幸祭と中地区POP |
皆当たる目出度き絵馬 |
社殿前の細い参道と宮神輿 |
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皆中稲荷神社は、天文2年(1533)に創建されたといわれます。
寛永11年(1634)の江戸城拡張に伴い鉄砲隊百人組が当地に屋敷地を支給された頃より皆中稲荷と呼ばれるようになりました。 |
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背高の台車に乗った宮神輿 |
渡御の主役の皆中稲荷の白丁 |
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狭い神社通りから四神や社旗や幟など祭礼隊列を整えて大久保通りからの渡御です |
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細い神社前路地から台車は隠れてまるで白丁に担がれたような宮出し (9時50分) |
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神社通り路地から台車に乗って広い大久保通りへと宮神輿が出てくる |
大久保通り: 「大久保」の地名の由来は、かつてはこの地に川が流れて相対的に周りより大きな低地(窪地)であったから大久保と呼ばれた。
農村のため鉄砲隊百人組の副業の植栽つつじが明治時代にはつつじの景勝地となったが今は無い。 |
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ゆったりと白丁が担ぐ宮神輿を宮司と町会役員が守るように進んでくる祭礼行列 |
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中地区お神酒所前でも白丁の担ぎ手達は台車での渡御なのか掛け声もなく静々と進んでくる |
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宮神輿が行きかう車両と並走して大久保通りの中央線ガード下から北新宿1丁目交差点へ |
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渡御路の北新宿百人町休息所のJR中央線脇の西新宿木村屋ビルに入り込んでくる (10時40分) |
家康の江戸入国時、鉄炮組並びに王薬同心(弾薬製造)は四谷あたりから東西大久保、諏訪、戸塚等に陣屋を構えて駐屯
したが、寛永十年(1633)江戸城整備と共に城下の整理も進められて、軍制も統一されてきて、
この鉄炮組も幕府の直轄として一定の禄高と地所屋敷が与えられ駐屯から定住に変わった。 |
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