渋谷: むかし区内部まで海が入り込んでいた頃「藻塩焼く里」が「塩谷の里」に変わり、
「しほや」→「しぼや」」と訛って「しぶや」となった(新編武蔵風土記)。
宮益坂: 眺望がよく富士を見ることが出来たので富士見坂と呼ばれた。
御嶽権現、千代田稲荷(家康が江戸城別名千代田城を拡張した際に、渋谷宮益に移り、
千代田稲荷と改称した。関東大震災で現在の道玄坂2-20に移転)
の門前町が出来、次第に繁昌してくると、
正徳三年(1713)に街並地となり江戸町奉行の支配地となった。
小商いと職人と飲み屋の明治の半ば過ぎまでは人家は両側に一列あるだけで、
初め渋谷新町といったが御嶽権現のご利益を得る事から宮益町と改称、坂道も宮益坂となった。 |
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