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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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三田春日神社 平成23年 9月 (3年毎) |
神輿データ:祭神:天児屋根大神 台座:二尺(61) 建造年度:昭和29年 製作者:浅草・宮本重義
特記: 延軒屋根 勾欄造り 元は町会神輿で後に神社に奉納された神輿です。 |
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桜田通りに面した鳥居の急石段下から朝日を浴びての宮出し |
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三田春日神社。 例大祭'11.09.11. 宮出し8:50〜 宮入14時
港区三田二丁目 13-9。 |
春日のPOP |
桜田通りに面した鳥居 |
春日大社と同じ朱色に白の社殿 |
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創建は天徳2年(958)
武蔵国司・藤原正房が藤原氏の氏神である奈良春日大社の第三殿に祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)を
荏原三田邑に奉斉したことを創祀とする。
建仁3年(1203)弘法大師作とされる十一面観音を祀った。
天文年間(1544〜55)現社地に遷座する。
社殿は昭和34年(1959)に再建。春日大社と同じ赤い柱に白い壁の社殿が建つ。 |
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春日神社の屋根紋は木瓜。
木瓜と書くので、胡瓜の切り口から案出されたという。
が、本当は地上の鳥の巣をあらわしている。
「もっこう」と呼びならされてきたのは、
多くの神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様だからという。
この紋は鳥の巣であるから、
卵が増えて子孫が繁栄し、また神社で用いられる御簾から、
神の加護があるというめでたい紋だとか。 |
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神輿屋根の木瓜紋 |
家紋の木瓜紋 |
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木遣唄う粋な頭が神輿を先導 |
天狗と小太鼓と山車が続く |
桜田通りから東京タワー方面へ |
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神事終え即予定より早く宮出し |
ビルの合間からの朝日を受け |
改めて桜田通りから渡御開始 |
春日神社は慶応大学三田キャンパス横の高台に鎮座しており、
参道石段下からの宮出し、そして渡御です。
ですが町会神輿のご挨拶参拝は急石段を登り降りするとか。
木遣を謡う頭を先頭に天狗と曳き太鼓、春日囃子と続いて神職、総代役員が宮神輿を先導です。 |
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国道一号線桜田通りを前方の東京タワーを見ながら悠然と渡御していく |
三田地名の由来:
この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、
伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからともいわれる。
三田の名は、吾妻鏡の中の正嘉2年(1258)にはすでに記されている。
明治4年(1871)三田二丁目に慶應義塾が移転してきて一気に知名度が上がる。 |
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田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)
明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万の民を悲惨な火から守るため、
ここで西郷隆盛と二回目の会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡です。
この蔵屋敷の裏は、すぐ海に面した砂浜で、薩摩藩国元より船で送られて来る米などはここで陸揚げされました。
鉄道も敷かれ(明治5年)、更に埋め立てられて、海までは遠くなったが、
この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
JR田町駅に隣接して現在は三菱自動車工業の本社ビル(写真)です。 |
慶応4年(1868)3月、西郷隆盛と勝海舟は、江戸城開城について2度会見しますが、
最初の会見場所は薩摩藩高輪藩邸(隠居屋敷)でした。いまその藩邸跡は「ホテルパシフィック東京」。
なお薩摩藩の上屋敷はいまNECの三田本社ビル。 |
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