歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 定日の3日間に渡る檜原担ぎ・入野獅子舞・氏子廻りの例大祭の阿伎留神社
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    阿伎留神社 平成23年 9月 (毎年定日の28日29日30日)

神輿データ: 祭神: 大物主命 台座:五尺(152) 建造年度:昭和56年 製作者:栃木・小川政次
  特記: 台座は正方形で胴と屋根は六角形 平屋台造り 担いで渡御する東京一の大神輿。
 

御旅所からの担ぎ出しにいきなりバランス崩す六角神輿。'11.09.29.
御旅所から六角大神輿を二天棒で担ぎ出しイザ氏子廻りが片側沈み二天棒で担ぐこの難しさ

神社名から五日市祭りに。'11.09.29. 歴史誇る神社に祭礼木戸門建つ。'11.09.29. 佇む阿伎留神社の社殿。'11.09.29.   阿伎留神社例大祭
 (=五日市祭り)
'11.09./28.29.30.
渡御氏子廻りは
  中間の29日
  13時〜16時
御旅所:檜原街道
  五日市48。
五日市祭りPOP 鳥居前には大幟と木戸門が建つ 静寂の境内に阿伎留神社の社殿

阿伎留神社。 あきる野市五日市1081。
延喜式の神名帳に武蔵国多摩郡(現在の世田谷から西側)八社の筆頭に記載されている古社です。 平将門の乱を平定するため天慶三年(西暦941年)勅命を受けた田原藤太は、平将門を征討することとなり、 戦勝祈願にこの阿伎留神社を訪れており、この後も歴代の武将の崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・北条氏康・ 徳川家康等の寄進状が残っているという由緒ある神社で祭神は大物主神・ 建夷鳥神・味耜高彦根神・天児屋根命。
延喜式とは、延喜五年(西暦905年)藤原時平らが編集した律令の施行細則のこと。
 

牡丹花傘とお亀ひょっとこと3匹の獅子。'11.09.29. 時には激しい獅子舞の披露。'11.09.29.
五日市入野の獅子舞があおり役と御旅所の宮神輿前で奉納 牡丹花傘乙女と三匹の獅子舞

阿伎留神社の祭礼は当町内の上町をはじめ、東町・下町・ 仲町・栄町を中心とする5町内が、子供神輿と、 神社宮神輿そして神社中神輿(中学生神輿)の渡御を行い、神社宮本である小庄(こしょう)が お先祓い太鼓を、そして五日市入野(いりの)が獅子舞を奉納するという、 7町内氏子中の例大祭です。  

華棒取り決まり担ぎ出し。'11.09.29. すぐ傾く二天棒担ぎの難しさ。'11.09.29. 神輿指揮者の指示で肩入れ直し渡御。'11.09.29.
華棒争いから前棒に肩が入る 傾き大鳥が幕を引っ掛け引き裂く 肩入れ替え直してイザ渡御

28日は昼間神事を行い夕方、五日市入野の獅子迎えで始まり、宮出しが行われます。 松原横町を通り、檜原街道を一往復したあと、御旅所に遷御です。
29日は7町会の氏子廻りとして、檜原街道以外の小さな通りまで神輿が廻る内廻りです。 氏子廻りに出発前の獅子舞が奉納されます。氏子廻りは正・副取締を先頭に渡御。 夜には檜原街道を2往復します。
最終日の夜には、桧原街道を2往復した後、松原横町を通って神社に宮入です。
檜原街道の両脇には露天が約150軒以上が(29日・30日)立ち並ぶ祭りです。
 

傾くと修復は難しい。'11.09.29. 氏子廻り渡御路は狭く二天棒担ぎ。'11.09.29. 沈む担ぎ手は根性の我慢。'11.09.29.
二天棒傾き出すと容易に戻らず 氏子廻りは細い路地ゆえ二天棒 誉れの担ぎだと必死にこらえ

氏子廻りは松原氏子の秋川沿い区域と、入野氏子の山手区域共に細いあぜ道や路地の巡行路。 渡御するのには二天棒でしか担ぎ込めないのです。  

大神輿が傾くと容易には立て直せない。'11.09.29. 指揮者から鼓舞され肩入れ直してはの担ぎ続く。'11.09.29.
大神輿傾きも出すも堪えての氏子廻り 体勢整えては細い路地中を渡御です

天保の六角神輿。'11.09.29. 先代中神輿。'11.09.29. お仮屋の平成中神輿。'11.09.29.
先代ニ代目の天保六角神輿 次世代担ぎ手育てた先代中神輿 お仮屋に鎮座する平成中神輿

二代目天保六角神輿は約160年間担がれ、引き継いだ三代目の六角大神輿は昭和56年(1981)に建造された。 中神輿は五日市中学校区全域に寄付を募り、 平成18年(2006)年に新調され中学生が担ぐ。共に栃木県小川政治の建造。
都心で働く氏子衆達は、夏休みは撮らずに、この例大祭に毎年里帰りしてくる。
 

休憩で気合入れ直し阿伎留神社鳥居前から渡御再開。'11.09.29.
阿伎留神社鳥居前で体力復活させる休息後に参道を悠然と担がれて松原横丁へと渡御

あきる野市地名の由来:  平成7年(1995)に秋川市と五日市町が合併して発足した。平成の大合併の先駆けといえる。 この地域は延喜式にも秋留、阿伎留と記載されている。 秋川市が主張する秋留と、五日市町が主張する阿伎留で二分したが、ひらがなで決着がついた。 なお五日市の由来は江戸時代に入り山方(檜原・養沢)の焼き出す炭の取引市として発達し、 定期市が開かれる日が地名になった。  


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