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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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柴又八幡神社 平成23年10月 (3年毎) |
神輿データ: 祭神: 誉田別尊 台座:三尺(91) 建造年度:昭和6年 製作者:行徳・後藤直光
特記: 唐破風軒屋根 平屋台造り 左右の胴羽目に金龍が刻まれている 帝釈天に入り込む |
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八幡神社脇を宮神輿が多くの担ぎ手と共に賑やかに渡御してくる |
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柴又八幡神社大祭 '11.10.10. (定日・祭日体育の日) 宮出し10:00〜宮入17:30
神社宮神輿と祭友会神輿との連合渡御を行う
宵宮では葛飾無形民俗文化財の神獅子舞が奉納される 葛飾区柴又3-30-24 |
大祭と神獅子舞のPOP |
昭和43年再建の鉄筋コン社殿 |
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柴又は「正倉院文書」の「養老5年(西暦721)下総国葛飾郡大島郷戸籍」に見える「島俣里」に推定される古地名であり、
柴又八幡の本殿は柴又河川敷遺跡の古墳の上に建てられている。昭和40年の社殿改築に際して、考古学者による調査が行われ、
埴輪片、馬具、石室石材の存在が確認されました。現在、社殿下には石室が復元されています。
社殿は寛永10年(1633)以降、再建または修築を経て昭和43年現在の鉄筋コンクリート社殿が造営された。 |
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社殿前からの威勢良い宮出し |
狭い参道を鳥居目指す |
鳥居潜りに下げろさげろの指示 |
境内から子供たちが引く曳き太鼓と子供神輿が宮神輿を先導していく。
台座三尺の宮神輿には駒札が取り付けられていない。
また今年は、宮神輿が東北の早期復興を願って渡御なのです。 |
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昭和30年代建造の祭友会神輿は延軒屋根、台座3尺、重さが約1トンという重い神輿です。
蕨手は龍をかたちどり駒札は祭友会を掲げている。 |
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祭友会神輿の威勢よく担ぎ出し |
鳥居潜りでもっと下げろに苦戦 |
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唐破風屋根の柴又八幡宮神輿 |
羽ばたき飛び出すような大鳥載せた祭友会神輿 |
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境内挨拶渡御したとか。渡御図確認でなしとの判断で撮影せず残念。
で以下は「maturi」さんの担ぎ感想。
本社を先頭に 柴又駅前の「大ターミナル」で「寅さん銅像」を一周して、
いざ参道へと二基の神輿は境内での担ぎ上げと、
沿道へのサービスとを計算して、そこそこの間をあけての帝釈天入りでした。
本堂前では当然の激しい差し上げでの挨拶でしたね。 |
総欅造りの帝釈堂 |
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京成金町線柴又駅前の銅像 |
明治29年建造の二天門と大鐘楼 |
参道蕎麦屋の寅さん映画ポスター |
山田洋次原作・監督「男はつらいよフーテンの寅」(松竹)は、昭和44年(1969)から平成7年(1995)まで全48作。
柴又は渥美清が演じた「寅さん」こと「車寅次郎」生誕の地で、柴又といえば寅さん、寅さんといえば「帝釈天」。
それで柴又の地名は一気に全国区の地名になった。
また柴又といえば「矢切の渡し」。これは寛永八年(1631)に許可されてから今日までず〜っと受け継がれている。 |
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宮神輿の後方を遅れがちに威勢の良い掛け声で担がれてくる祭友会の神輿 |
柴又地名の由来:
古く正倉院文書に「嶋俣里」と見え、御厨文書にも見える。
江戸川と中川に挟まれた湿地で、「小田原所領役帳」では「柴俣」と書き、その後は「柴亦・芝亦・芝又」とも書いた。
現在の「柴又」に落ち着くのは17世紀初頭、元禄のころとも享保十八年(1733)の検地以後とも言われている。
嶋は砂州で、この辺りが海か入江だったころ幾つかの島状の陸地があり、「嶋俣」はその状態を呼んだのではと考えられている。
「俣」には分かれるの意がある。 |
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