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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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下谷神社大祭 平成24年5月 (隔年) |
神輿データ: 祭神:大年神・日本武尊 台座:4尺1寸(124) 建造年度:大正15年
製作者:行徳・後藤直光 特記: 大鳳凰を載せた急勾配の延軒屋根と勾欄造りの大神輿。 |
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仲御徒町での町会引受けで早くも担ぎ手達の躍動するパワーでぶれながらもジワリと前進 |
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下谷神社例大祭。 '12.05.13.(日曜) 宮出し6:15〜 宮入18:30.
下町で一番早い夏祭りとされている 台東区東上野3-29 |
ラップPOP |
東郷元帥筆の額かかる大鳥居 |
途切れない参拝者の拝殿前 |
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下谷神社は、天平2年(730)行基により上野忍ヶ岡の地に神仏習合神社として正法院(現豊島区西巣鴨)と共に創建さた。
祭神の大年神(おおとしのかみ)は素盞雄尊の子であり、倉稲魂命と共に五穀を掌る「お稲荷様」です。
明治5年に下谷神社に社名を変更し、昭和6年に現在地に遷座した。
神社周辺を稲荷町というのは、この神社の旧称下谷稲荷社にちなんだものです。 |
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仲御徒町で引受け早くも興奮状態 |
パワーあふれる怒涛の進撃 |
御徒町の引渡所を目指して前進 |
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掛け声と雄叫びで血湧き肉踊るが如しの昂揚する担ぎ手達に観衆は拍手喝采 |
下町の下谷神社大祭は、千年以上の歴史を持ち、本祭りでは、
千貫神輿と呼ばれている本社神輿が、氏子29ヶ町の若衆延べ7千人によって練り歩き、
お江戸の下町のため露天商の数も多く神社周辺は130軒余が出展し祭りを盛り上げる。 |
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蕨手の房が揺れ小鳥がクルリと |
神輿揉みと同時にクルクルと回る |
四隅の蕨手の八咫烏が回る |
千貫神輿の屋根の四面には神紋の銀色の稲穂紋をつけ、四隅の蕨手の小鳥に八咫烏を乗せている。
これは日本武尊に因んだものでしょう。神輿は大正15年の建造です。
蕨手の八咫烏は神輿振りと同調してクルクルと回転する。 |
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最大の見せ場である上野駅広小路口に入り込む勢いの千貫神輿の迫力にギャラリーは固唾をのむ |
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千貫宮神輿が広小路中央通りの中央に戻りだすと観衆からは拍手喝采が鳴りやまず |
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渡御路最大の見せ場の上野広小路での観衆と共に担ぎ手の興奮と熱気の渦が最高潮 |
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下谷神社のお膝元である東上野三丁目の宮元神輿。
さすが重量感あふれ見栄えする美形の神輿で、本社神輿の担ぎに劣らぬ気迫での担ぎ手達です。 |
大鳥を載せた神輿はさすが宮元 |
担ぎ手息切れの重量ある宮元 |
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御徒町のガード下は雑多な歓楽街でまさに下町です。
その路地中を町会神輿が立て看板や幟や張りだしテントを避けながら器用に巡行していくのです。 |
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ガード下を下谷町神輿 |
雑多な歓楽街を巡行 |
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御徒町公園の中の八幡神社。 台東区台東4丁目13.
この社は伊予の大洲(おおず)藩の上屋敷の跡で、大洲八幡神社から勧請した社。
御徒町4丁目13周辺の居住者(御徒二町会)の信仰心に感服です。まさに歴史浪漫 ! |
御徒町公園内の八幡神社 |
御徒二町会の巡行 |
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御徒町の由来。
江戸時代この地域は古くは下谷村に属したが、
正保年間には御徒衆(主君の外出時に徒歩で身辺警護を務めた下級武士)の住居地があり、
以後もその組屋敷が多く置かれた。
これが地名「御徒町」の由来となっている。それ以外の地域も殆んどが大名屋敷や旗本をはじめとする武家地であった。
明治5年(1872)それら武家地に御徒町一〜三丁目・二長町・竹町が起立し、以後市街地として発展する。
明治11年(1878)には郡区町村編制法により東京15区のひとつ下谷区になる。
昭和39年(1964)、行政地名としての御徒町は消滅しました。 |
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