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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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住吉神社 平成24年8月 (新八角宮神輿初渡御・昨年の順延 3年毎) |
神輿データ:祭神: 底筒之男命(住吉大神で海の神) 台座:四尺二寸(127) 平成23年建造
特記:屋根・胴・台座までもが八角形の大神輿。浴衣で宮出し。勇壮なあおり獅子も巡行する。 |
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佃島小橋より煌びやかに輝く鳳凰をのせた新八角宮神輿が黒木鳥居潜り初の渡御 |
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住吉神社例大祭。 '12.08.05.(日曜)。昨年本祭り延期。
宮出し6時、船渡御 7時〜12時。
佃島小橋から勝どき御旅所へ渡御。 12:10〜14:20 夕刻勝どき渡御。
(月曜) 御旅所9時〜宮入19時半。 東京都中央区佃一丁目1 |
幻想的のPOP |
鳥居陶製の扁額 |
住吉神社の拝殿 |
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徳川家康が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職であった平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、
寛永年間に幕府より許しを得て鐵砲洲向かいの干潟を築島した。
そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、
正保3年(1646)6月に住吉三神、神功皇后、徳川家康の神霊を奉遷祭祀した。これが佃住吉神社の起源です。 |
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佃島に建てられた大幟 |
大祭毎ごと使用する抱木 |
住吉講の宮元大神輿 |
住吉講: 元禄7年(1694)に、佃嶋(現・佃一丁目)に講組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、
明治時代から昭和初頭にかけ月島や晴海が埋め立てられ、また人足寄場や監獄として利用されていた石川島
(別称:森島、鎧島)が、明治29年(1896)に監獄移転に伴って工業・居住の地となり、
これらを含めた全島が氏子中に編入されていった。 佃島氏子中は昭和22年に佃住吉講と名称変更されている。
住吉講が例祭(神幸祭)を取り仕切る。 |
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早くも宮神輿へ水掛け |
オリャオリャ熱気の掛け声 |
西仲通り商店街の豪快水掛け |
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真夏の祭典ゆえ月島西仲通り商店街で担ぎ手に無礼講の水掛けです |
中央区区民有形民俗文化財の宮神輿は正保9年(1838)に芝大門の万屋利兵衛により製作され、
昭和37年までは海中渡御も行なわれた。
神輿胴内は漆塗りで気密性が高められているが、
近年痛みが激しく創建以来二基目となる宮神輿が平成23年に170年ぶりに建造され、今回初渡御です。 |
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強い日差しを受けながら月島西仲通り四番街で津久田警護提灯に守られ息の合った差し上げ |
佃住吉神社から、御旅所までの渡御は佃住吉講が行います。 事前には、道路に散水し、担ぎ手の手や足元に水がかけられます。
神輿警護の「高張」や「弓張提灯」への水掛は禁止、神輿への水掛も住吉講では、禁止されていますが。
真夏の祭り故に、無礼講の様です。 |
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華美絢爛な宮神輿がオリャオリャの掛け声で西仲通り沿いの月島3丁目サンシィテーまで南進してきた |
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炎天下の勝どき橋交差を新宮神輿がオリャオリャと威勢よく担がれ御旅所を目指す |
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御旅所前でオリャオリャと最後の担ぎ |
差し上げで御旅所に渡御のご挨拶 |
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本社神輿は御旅所に渡御し、夕刻には勝どき豊海町内渡御した後、御旅所で一夜を過ごします。
住吉神社の御旅所は昭和59年に勝どき四丁目に移転建立(最初は明治34年に勝どき二丁目に建立)、
分社が江東区牡丹町(旧・佃町)と晴海にある。 |
住吉神社勝どき御旅所 |
勝どき西町会の二号地大神輿 |
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佃島は江戸湊の入口に位置し、住吉神社は海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、
渡航安全の守護神として信仰を集めました。
その後明治時代には、月島と勝どきと新佃島、昭和時代には晴海と豊海が埋め立てられ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。 |
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