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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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佃島 住吉神社 八角神輿連合渡御 平成27年8月 (3年毎) |
神輿データ: 祭神: 東照御親命(徳川家康) 台座:四尺二寸(127) 建造年度:天保9年 製作:芝大門の万屋利兵衛
神輿データ: 祭神: 底筒之男命(ほか住吉三神) 台座:四尺二寸(127) 建造年度:平成23年 製作:八丁堀 秋山三五郎 |
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新宮神輿が炎天下の西仲通り二番街で四方を警護斑提灯に守られ息の合った差し切りの御披露 |
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住吉神社祭礼POP |
祭礼聖域示す黒木鳥居 |
佃小橋周辺に6本の大幟が立つ |
真夏の祭礼紅色提灯 |
住吉神社例大祭 '15.08.02.(日曜) (神社鎮座370年祭 徳川家康400年祭) 中央区佃1
◎ 宮出し6時 船渡御 7時〜8時 晴海沖で海上祭 ◎ 住吉講佃島渡御 8時〜11時
◎ 連合渡御 12時10分(佃小橋)〜14時20分(御旅所)月島、勝どき。 翌日は晴海渡御
佃島住吉神社は正保3年(1646)の創建です。
天正18年(1590)に徳川家康が関東下降の際に同行した摂津国佃村の漁師らが干潟を幕府から下賜されて埋め立てたのが佃島です。
黒木鳥居(皮剥ぎ白木)が設けられ六本の大幟が立ち、真夏の水掛け祭りとして有名です。 |
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朱塗佃小橋から八角神輿二基を先導する花傘の棟梁達 |
黒木鳥居の提灯跳ね上げて台車に載った天保神輿の渡御 |
黒木鳥居は皮つきの丸木でつくった鳥居で、鳥居の最も古い形なのです。
住吉神社の黒木鳥居は、皮を剥いでいるので地肌がでる白色の黒木鳥居なのです。
この仮設の鳥居によって島全体が祭礼の入口であり神聖な神事の境内となるのです。 |
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粋に被った水色揃衣(そろい)の大若衆が「オリャ!オリャ!」の掛け声で佃小橋から佃二丁目へと新宮神輿を担ぐ |
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大若衆が担ぐ宮神輿に佃二丁目で遠慮した上品な水掛けなのだがカメラレンズも水飛沫を受けて曇る |
住吉講が羽織っている着物は、浴衣(ゆかた)とは呼ばず、揃衣(そろい)と呼ぶとか。
世話人、大若衆、若衆という階級によって色やデザインが異なる。
薄い浅葱色が世話人、水色が大若衆で、若衆はいつも白地と決まっていて鉢巻・揃衣・白足袋が祭りに参加する装束です。
粋な着流しが祭の衣装とは厳しい伝統と伝承の証なのです。 |
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佃二丁目から月島の西仲通り商店街へ台車に載った天保八角神輿と後方の新宮神輿が進んでくる |
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警護班に守られて「オリャ!オリャ」と勇ましい掛け声で西仲通り一番街を渡御です |
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新宮神輿の西仲通り一番街で差し切りを見事に決める御披露です |
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新宮神輿が炎天下の西仲通り二番街で息の合った差し切りの御披露です |
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西仲通り月島三丁目の西仲橋に渡御してきた八角神輿二基 |
天保神輿は西仲橋脇でクレーンで釣り上げて車輛に撤収です |
砂州が埋め立てられ明治25年(1892)に月島第一号埋立地(現月島一〜四丁目)が完成。 その2年後には第二号埋立地(現「勝どき」)も造成されました。
東京市会ではこの埋立地に「築島」「月島」の町名が討議されましたが、最終的には月島と決定しました。
明治・大正・昭和と続く月島、勝どき、豊海、晴海は全て砂州の埋立地なのです。 |
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若衆が勝どき橋交番前を威勢よく担ぐ新宮神輿を報道カメラが追尾している |
勝どき: 勝鬨橋に由来する地名。日露戦争旅順陥落の勝利を祝して、築地と月島の間を結ぶ渡船場を設置、「勝鬨の渡し」と命名。
昭和15年に勝鬨橋となったが隅田川のもっとも下流に架かる橋。
なお「鬨」が常用漢字外であるため、平仮名「どき」と表記された。 |
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開放的な晴海通り勝どき橋交差点でオリャ!オリャ!の掛け声で新神輿が一基で悠然と渡御 水分補給役の女性達大活躍 |
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給水係から肩入れながらの水分補給で元気つき炎天下に「オリャ!オリャ」が響く |
住吉講は元禄7年 (1694)には、河上正吉らが佃嶋(現在の佃一丁目)に居住する男子からなる講組織 「佃嶋氏子中」が結成されて、
昭和22年 (1947)には、講組織 「佃嶋氏子中」が「佃住吉講」と改称し住吉神社の祭礼・各種行事の一切を執り行うのです。
佃島の中でも、一部 (上町:かみちょう)、二部 (下町:しもちょう)、三部 (東町:むかいちょう)と別れ、
6本の大幟も各部で二本づつ掲げます。また各部2頭の獅子頭を保有する。
また船渡御をするのは当番部だけで、9年に一度の大役なのです。 |
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