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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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穏田神社神幸祭 平成24年9月 (不定期) |
神輿データ: 祭神: 於母陀琉神 台座: 三尺一寸(94) 建造年度: 大正9年 製作者: 不明
特記: 勾配急な延軒屋根 四方桟唐戸 勾欄造り 背高い神輿 神社通りから表参道渡御 |
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細長い参道の両端の夜店屋台を掻き分ける様にして鳥居から神社通りへ宮出し |
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穏田神社(おんでん) '12.09.09.(日曜) 宮出し12:30〜16:00
神社から商店街抜け表参道まで往復渡御 渋谷区神宮前5-26 |
穏田神社POP |
独特の牛蒡注連縄の飾り付け |
身動き取れぬ境内での出御式 |
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穏田神社は旧穏田一円の産土神で、天正十九年伊賀衆が穏田の地を家康より賜り給地となる。
以後この辺開け江戸時代は第六天社と称し、明治維新の際に現社名に改称する。
祭神は美容、技芸上達、縁結びの神として尊崇される。 |
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参道を祭礼隊列組んで宮神輿を先導してくる |
宮神輿の渡御出立つの差し上げご挨拶 |
鳥居から境内への参道は立ち並ぶ銀杏の並木が古い神社の面影を偲ばせている。
神社前からお囃子車輛が先導して神職や神社旗、神社や3町会の高張提灯、
花傘の総代達が穏田商店街、表参道へと渡御する。最後尾に馬簾が付く。 |
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神社前通りから表参道通りへと北進 |
穏田商店街を勇ましい掛け声で渡御 |
宮神輿は大正9年制作の80年余を経た由緒あるもので、
第二次大戦の戦火に神輿庫を除いて神社施設全てが焼失、昭和20年以降は数回の渡御が行われています。
平成15年に解体修復され、H16年に渡御。今回は5年ぶりの渡御です。 |
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ブティックやジュエリーやカフェが建ち並ぶ原宿穏田商店街を威勢良い掛け声で渡御 |
穏田商店街は東京オリンピックの時に渋谷川の暗渠の上を緑道整備して造られたキャットストリートの一部です。
キャットストリートは国土交通省のスーパーモデル地区のくらしのみち事業のモデル地区として選ばれている。 |
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悠然と若者の町の穏田商店街を渡御 |
大欅立ち並び車輛行きかう喧騒の表参道へ |
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表参道の大ケヤキ並木のこぼれ陽を受けて参道橋の石塔建つキャットストリート入口で木が入る |
表参道に参道橋という石塔が建つ。いまは暗渠になった渋谷川にかかっていた橋の欄干の親柱です。
渋谷川は葛飾北斎の富嶽三十六景「隠田の水車」に出てくる川であり、旧隠田川です。
当時は富士山の姿がここから観れたといわれまさに歴史浪漫です。 |
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穏田神社は穏田小若会、穏田東町会、穏田九重会の三町会です。
表参道の穏田九重会お神酒所での神事では、珍しく笙の笛が吹かれ響きわたるのです。 |
喧騒の中に雅楽の笙が響く |
穏田九重会御旅所での神事 |
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穏田地名のおこりは北条氏の家臣「恩田某」の居住地、関東管領上杉定正の臣「恩田五郎右衛門の隠棲」の地だとか。
渋谷とはむかし区内部まで海が入り込んでいた頃「藻塩焼く里」が「塩谷の里」に変わり、
「しほや」→「しぼや」」と訛って「しぶや」となった。
「渋」には「滞る、行き悩む」という字義がある。だから渋谷は「行き詰った谷」ということでもあり、
地形的には入江の奥谷をいう。 |
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