歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 住吉神社は3年に一度の6本の大幟と早朝の八角神輿の宮出しと海上渡御
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    住吉神社 例大祭 平成20年8月 (3年毎)

神輿データ: 祭神: 底筒之男命 台座:四尺二寸(127) 建造年度:天保9年 (1839)
   製作:芝大門の万屋利兵衛  特記:屋根・胴・台座までもが八角形の大神輿。
 

世話人や大若衆が見守る佃島住吉神社の宮出し。08.08.03.
佃島住吉神社の八角神輿 神輿に宝銭投げ込み早朝6時の宮出しに殿の振り子役若衆のこの気合

夜明けにうかぶ住吉神社の鳥居。08.08.03. 明治15年の神社陶製額。08.08.03.   本社八角神輿神事。08.08.03.(日曜)5時45分より
本社八角神輿宮出し。 海上渡御 7時より
御旅所渡御 12時40分より
宮入。 08.08.04.(月曜)18時50分から。
獅子頭宮出し。08.08.02.(土曜)10時半から。
東京都中央区佃1-1。

明治15年(1882)の陶製額は有栖川宮幟仁親王の筆。
夜明けの空に住吉神社の鳥居と陶製額 明治15年の陶製額

住吉神社。徳川家康が摂津国佃の漁夫33人と摂津住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、 寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り埋め立て築島した。 そして故郷の名をとり佃島としたことに始まる。 この地に社地を定め、正保3年(1646)6月住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀し。 これが佃住吉神社の起源です。

佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合等多くの人々から海上安全、 渡航安全の守護神として信仰を集めました。 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれ、 その地域の産土神(氏神)として信仰されている。
 

聖域示す白木の黒木鳥居。08.08.02. 組み立てられた大幟柱と抱木。08.08.02. 佃島に六本建つ大幟。08.08.02.
佃島への入り口の黒木鳥居 大幟の柱と抱木 佃島朱欄橋前の2本の大幟

佃島への入り口黒木鳥居。 そもそも皮を剥がないままの生木で作ったものをいいますが、 住吉神社の黒木鳥居は、皮を剥いでいるので白色の黒木鳥居です。 この祭り準備期間中に建てられる臨時仮設の鳥居と又木によって、島全体が境内となるのです。

本祭りに欠かせない六本の大幟。大幟の柱や抱木(だき)は、 空気に触れて木が腐ってしまわないように、三年の間、川底に埋められています。 本祭りの年、水の引く干潮時を狙って掘り起こされます。 祭りが終わると、また三年の間、佃小橋の下に埋められます。
 

隅田川沿いに建つ大幟。08.08.02. 風になびく大幟旗。08.08.03. 黒木鳥居と同じ役目の又木。08.08.03.
佃島に建てられる六本の大幟(隅田川沿い) 住吉神社脇の大幟 佃大橋入り口側の又木

  八角宮神輿の宮出しと海上渡御

獅子頭宮出し後に担ぎ出された八角神輿。08.08.02. 早朝の式典飾りつけ完了の八角神輿。08.08.03. 早朝の揃い浴衣で厳粛な出社祭。08.08.03.
土曜20時の御魂遷しのため担ぎ出される 日曜5時45分の出社祭を待つ八角神輿 早朝の宮元役員と大若衆参列の出社祭

宮神輿は前夜20時に御魂遷し、渡御当日の日曜は5時45分からの出社祭が執り行われ、 宮出しは6時から若衆の担ぎ手二班による海上渡御の隅田川船着場まで担がれる。
当然夜間は本殿前境内に鎮座する宮神輿を若衆二人が寝ずの番です。 蚊取り線香焚いて獅子頭、本部や各お神酒所も同様です。

世話人(せわにん)、大若衆(おおわかいし)、若衆(わかいし)、それぞれにデザインが異なっている この揃浴衣、例大祭ごとに新調され、「当年の揃衣は、親兄弟であっても貸借してはいけない」 との厳しい決まりがあり、この揃衣を着用しない限り、宮出し、 宮入などで神輿を担ぐことはできないのです。
 

早朝六時からの若衆達のこの躍動感には感動です。08.08.03.   住吉神社の宮神輿は「八角神輿」と呼ばれる台座:四尺二寸(127)の神輿です。 正保9年(1838)に芝大門の万屋利兵衛により製作。 八角の神輿は関東ではめずらしく、天皇の御座 高御座を擬したと言われ、 昭和37年までは海中渡御が行なわれていました。 神輿は内部も漆塗りになっていて気密性が高められています。 中央区有形民俗文化財です。

境内狭しと激しい動きで八角神輿を左右に回転させる。08.08.03. 神輿沈めては差し上げる。08.08.03. 境内で存分に神輿揉みしていざ鳥居へ。大喝采。08.08.03.
宮出しで境内狭しと殿が左右に回転役 神輿沈めては何回も宮神輿を差し上げる 境内で宮出し担ぎを奉納して船渡御場所へ

参道に待機の数十人の若衆が合図と共に宝銭(和紙で矢尻状に包んだ奉納銭) を宮神輿目がけて投げ入れながら、堰を切ったようになだれ込んでくる。 早朝6時からの宮出しに若衆の担ぎ手達のこの躍動感と気迫に感動です。 大若衆の神輿指導役も要らぬほどの境内での神輿担ぎです。  

台船前に担ぎ込んで差し上げの雄叫び。08.08.03. 台船上で担ぎ棒引き上げ後方は押し上げる。08.08.03.   宮出しの途中で引き継いだ担ぎ手若衆の第二班は隅田川堤沿いを駆け上がり 佃公園の慶応2年(1866)に築かれた石川島灯台下の船着場に宮神輿を担ぎ込むと、 早朝の隅田川に響き渡る雄叫びの指し切りです。
無事に担ぎ込んだと第二班の台船前での雄叫び 海上祭船場への宮神輿の台船へ担ぎ上げ

宮出し第二班の台船へ宮神輿を担ぎ揚げて、 船上で神輿揉みと指し切りで海上渡御を祝いながらも 年番3部の3年後の担ぎまで名残惜しむ。 海上祭後宮神輿は勝どき御旅所へ海上渡御です。   台船上で神輿揉み差し上げ。08.08.03. また担ぐ時までと何度も繰り返す差し上げ。08.08.03.
台船で再度神輿沈めの神輿揉みです 海上渡御の無事を願う指し切り

宮神輿の八角神輿は晴海、勝どき、豊海を渡御して御旅所で泊まり、 翌日月島を渡御後、19時20分から迫力ある宮入です。
高張り提灯は全て佃ではなく「津久田」と記載ですが、 摂津住吉神社時代からの名残なのでしょうか。
 

現役ポンプが散見される。08.08.02. ここが渡し場の碑。08.08.03. 隅田川沿いに建つ石川島灯台。08.08.03. 抱木の奥に佃煮の天安。08.08.02.
今だ現役のポンプ 佃島渡船跡の碑 石川島灯台モニュメント 大幟の柱と抱木と佃煮の天安

佃島には今だ江戸の風情が色濃く残っています。
渡し船が唯一の対岸との交通手段で、佃島の渡船は正保2年(1645)に始まり、 昭和39年(1964)まで続いた。
沖を通る船のために慶応2年(1866)に築かれた石川島灯台のモニュメント。
佃島の漁師達が、舟で食事をする時の保存食として小魚などを醤油で煮た佃煮、 天保7年(1837)創業の老舗佃煮屋、天安など今だ複数の佃煮屋が健在。
 


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